リベラルと保守(または日本型保守について)

食、趣味、その他

5月3日

 5月1日の朝日朝刊。「折々のことば(鷲田清一)」にフィンランドで暮らしていた社会学者朴沙羅の言葉が載っていた。「公というのは「迷惑」の対象ではなく、私が利用する対象だ。……公のために私が我慢しなければならないのではない」
 鷲田はこれを受けて「この国の社会福祉は、すべての人が共通かつ平等にサービスを享受できるところに特色があるという。公助は「世間のお世話になる」ことではなく、高い税金の一部還元。いざという時の備えとして預けているものと受けとめられ、ハードルも低い」とつづっている。
 奇しくも同じ紙面の「天声人語」には水俣病のことが書かれ、「補償を求める患者や家族の動きはうとましかった。『患者さん 会社を粉砕して水俣に何が残るというのですか』『死んだ魚を食ったのが悪い』と中傷のビラがまかれた。地域社会は分断された」とあった。
 時代も場所も違うとはいえ、「公共」「社会」への捉え方の彼我の違いに愕然たる思いがした。
 折しも、SNSでは「左翼の人たちは、国のことをいくらでもわがままを聞いてくれる母親だと思っている」という趣旨の投稿が話題になっていた。主として右派・保守派からは賛同の意見が多く、左派・リベラル派からは国を母親になぞらえる発想がおかしいという批判があったようだ。

 このブログを定期的に読んでくださっている方ならとうに気付いておられるだろうが、僕は政治的に右か左かと言われれば間違いなく左である。自分ではリベラルだと思っている。これも以前書いたことだが、「リベラル」ということばがネガティブな意味合いで使われる時代が来るなんて昔は夢にも思っていなかった。

 いわゆる「ネトウヨ」を、保守とは別物だと指摘する政治学者がいるが、その場合学者が言う「保守」とは西欧型の保守主義を指していることが多い気がする。僕は現代の日本の保守政治というものは西欧の保守とは全く異なるものだと考えている。日本の保守政治家を一言でいえば「戦前の価値・権力体系を温存・復活しようと考えている人たち」だと思う。「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍元首相はその典型だ。そしてそれは右派とかネトウヨと呼ばれる人たちにも共通する。
 問題は、今なぜリベラルが衰退し、日本型保守を支持する人々が増えているのかということだ。言い換えると、右派的な感覚を持つ人が増えている。
 ここでいう右派的感覚の持ち主とは、先ほどの国との関係を母親にたとえた例に顕著だが、家庭の形にこだわり、夫婦や男女の役割分担を重視して夫婦別姓や同性婚には否定的な人たちだ。共同体を家庭の延長ととらえ、家族の多様化や移民の増加は共同体の同質性を破壊するものとして否定するのだ。
 国を、家の延長のようにとらえる感覚が僕には理解できない。STATEを「国家」と訳したのがいけなかったのだろうか。

 明治政府が無理やり『家制度』を作って、すべての国民を家に縛り付け、家の中で最年長の男性を戸主と決めて、その戸主が家族に対して絶対的な権力を持つようにした。その延長で日本という国も一つの家族になぞらえた。その「家制度」は新憲法下では廃止されたはずだが、いまだに「家父長制の亡霊」は生き続けている。
 それに加え、社会学者の土井隆義が指摘するような「若者の地縁・血縁共同体への回帰・伝統志向・民族への関心の高まり」が二十一世紀に入ったあたりから顕著になってきたこともあろう(「『宿命』を生きる若者たち」岩波ブックレット2019年)。道徳教育や愛国心教育がじわじわと効いて来たのかもしれない。

 だからここで我々は先の朴沙羅の言葉をもう一度噛みしめる必要があるのだ。「公というのは「迷惑」の対象ではなく、私が利用する対象だ。……公のために私が我慢しなければならないのではない」

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