3月31日
日本映画専門チャンネルで「敵」(2025年・吉田大八監督)を視聴した。原作は筒井康隆だそうだが、僕は読んでいない。モノクロで、平屋の日本家屋に一人暮らしの元大学教授の男性の生活に密着した映像は、どことなく「陰影礼賛」という感じ。男性はパソコン等も使いこなして、老後を楽しんでいるようだ。風呂や洗顔、歯磨きのシーンなどもあるが汚らしさは感じない。「夏」からのスタートで、現実にはさぞ暑かろうと思うが、映像は涼しげだ。(以下ネタバレ)。
長塚京三演じる主人公の老人は元仏文科の大学教授で、子はなく、妻とは死別している。時たまの講演料と、旅行雑誌の連載の原稿料がわずかな収入で、それと年金で生活している。残高がなくなったら自決すると、グラフィックデザイナーの友人(松尾貴史)に語っている。困ったときには助けに来てくれる元教え子(松尾諭)もおり、女性誌の編集者をしている元教え子(瀧内公美)も時折来訪する。グラフィックデザイナーの友人と一緒に飲みに行ったバー「夜間飛行」で、マスターの姪だという仏文科の学生(河合優実)と親しくなる。
老人は一人暮らしでもきれい好きで、料理にも手を抜かず、また料理にふさわしい食器を使っている。食後のコーヒーは豆から挽いて淹れるこだわりぶりだ。それが「冬」になる頃にはどことなくだらしなくなり、コンビニのおにぎりやカップラーメンなどを食べるように変化している。
題名の「敵」は老人のパソコンに届いた“敵がやって来る”という不穏なメッセージのことで、これ以降徐々に不気味な出来事が続く。「夏」では老人の日々の中の不協和音は、隣家の犬の糞騒動や、蠱惑的な女性編集者の妙に意味深な目つきぐらいだった。「秋」になると、まず下血したことがきっかけで大腸の検査を受けることになる。二度目に受診した時は医師が女医に変わっており、老人は拘束具を付けられて四つん這いの姿勢を取らされ、「早くしてください」というと女医は「もう入っていますよ」と言う。途端にケーブルが生き物のように尻の穴から入ってくるという所で目が覚める。この部分は丸ごとが夢だとわかる。
女子大生に「『失われた時を求めて』に出てくる料理をごちそうする」と約束し、材料を取り寄せる。だが実際にそれを一緒に食べるのは女性編集者だ。彼女に「先生、私としたいの」と言われ、ソファに横たわる彼女のスカートをめくり上げたところで目が覚める。この場合、どこまでが現実にあったことで、どこからが夢なのかが不分明だ。
「冬」になると、バー「夜間飛行」が閉店し、グラフィックデザイナーの友人が入院する。老人が見舞うと友人は昏睡状態で、友人の妻は売店に行くと言って病室から出てゆく。すると友人が目を覚ます。老人は彼に、「夜間飛行」がなくなった事と、女子大生と連絡が取れないことを訴える。老人は彼女に学費や生活費としてまとまった金を貸していたのだ。友人の容体が急変し、老人は医師を呼びに行くが、廊下は暗くて誰もいない。院内をさまよううち、二十年前に死んだ妻の名札が掛かった病室を発見する。そこに入り、ベッドにかかったシーツをまくり上げたところで目が覚める。ここでも現実と夢の境界線はあいまいだ。友人の病気や、老人が女子大生に老後資金をだまし取られたことは事実だろうと思われる。
これ以降、死んだ妻(黒沢あすか)がたびたび現れるようになり、一緒に風呂に入ったりもする。老人は妻がすでに死んでいることは認識している。
これらに合理的な説明を付けるならば、この老人は認知症になっているということだろう。特にレビー小体型認知症の場合、幻視や妄想の傾向が顕著であるとされている。
老人と女性編集者が鍋料理を食べているところに若い男性編集者が訪ねて来る。いつの間にか妻も現れていて、なぜか四人で鍋を囲むことになる。妻と女性編集者が諍い、妻が消えた後、今度は女性編集者が若い男を殺してしまう。二人で死体を運んでいると元教え子が現れて、男の死体を井戸に投げ込む。老人は女性編集者に「心配しなくていい。今日のことは全部僕が見ている夢なんだから」と言うが、女性編集者からはかつて老人からハラスメントを受けていたと責められる。「そんなこと言わないでくれよ。いい思い出なのに」という老人の言葉が哀切だ。原作は読んでいないが、知識人の末路を露悪的に描くシニカルさはいかにも筒井康隆らしいと思える。一方で、こういう男性の妄想の気持ち悪さは受け入れられないという人も多いだろう。かつて「恋は遠い日の花火ではない」のCMで一世を風靡した長塚京三にこれを演じさせるのが凄い。
僕が身につまされたのは、これから老境に入ってゆく僕が、この主人公と同じように子供がおらず、係累がないからだ。前半で描かれた生活はぼくにとっての老境の理想でもあったのだ。
雨が降る庭を眺めながら、「この雨があがれば春になる。春になればみんなと会える」と呟く場面は、個人的にはパートカラーにして夢幻的な美しいラストにしてほしかった。そして、老人が亡くなって遺言状が公開される映画のラスト部分は全くの蛇足だと思う。

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