奇跡のアルバム「HIROMIC WORLD」

音楽、絵画、ドラマ

4月10日

 時々無性に聴きたくなるアルバムの一つに、郷ひろみの「HIROMIC WORLD」がある。半世紀近く前の1975年のアルバムだが、今聴いても全く古びていないどころか、その後のJ‐popなんかよりずっと新しいと感じる(もちろん僕個人の感じ方だが)。
 以前、あるTV番組で、太田裕美の「心が風邪をひいた日」を、日本最初の本格的なコンセプトアルバムだと紹介していたのを見た。当時のLPレコードは、シングル盤の発表曲に、他の歌手のヒット曲や外国曲のカバーを加えたものがほとんどだったが、この「心が…」はすべて太田の魅力を引き出すために書き下ろされたオリジナル曲だからというのだ。だが同じことはこの「HIROMIC…」にも言え、こちらの方がほんの僅かだが発売が早い。さらに言えば、「HIROMIC…」の方は、全曲オリジナルなだけではなく、シングル曲を1曲も含まないという、当時としてはかなり珍しいアルバムだった。「幻の…」とか「奇跡の…」などと言われるゆえんである。そして「奇跡」と言われる理由がもう一つ。このアルバムに収録された11曲すべて、作詞はユーミンこと荒井由実(松任谷由実)作・編曲は筒美京平と、まさにレジェンド級なのである。
 以前、自分の小遣いで初めて買ったLPが日暮しの「街風季節」だったと書いた(「『日暮し』を知っていますか」)が、確か二枚目がこれだった。ラジオでこの収録曲の「20才を過ぎたら」を聴いて魅了されてしまったのである。僕は郷ひろみのファンだったわけではない。特定の歌手のファンではなく、誰の曲でも、良いものは良い、嫌いなものは嫌いというスタンスだったのだ。
 この年、荒井由実はデビューから三年ほどで、まだ大学に在学中だった。自身最初のヒット曲「あの日に帰りたい」と、他のアーティストへの提供曲としては初のメガヒット、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」をほぼ同時期に発表したとはいえ、まだ今ほどの知名度はなかった。
 前述の太田裕美「心が…」にも、作曲で参加している。松本隆と組んだ「袋小路」という曲はファンの間で人気の高い名曲だ。松本とは後に松田聖子のヒット曲等を共作することとなる。このアルバムからは松本・筒美コンビの最高傑作といわれることも多い「木綿のハンカチーフ」が生まれているのだが、ユーミンと筒美の直接の絡みはここではなかったようだ。
 筒美について付け加えると、この年は岩崎宏美に書いた「ロマンス」「センチメンタル」が大ヒットした。翌年2月にはアルバム「ファンタジー」がリリースされるが、全編ディスコサウンドで統一したこのアルバムにも筒美は全10曲中8曲を作編曲しており、傑作ぞろいである。このアルバムの制作時期は、「HIROMIC…」「心が…」とも重なっていたはずで、まさに脂の乗り切った時期だったのだろう。
 「HIROMIC WORLD」に話を戻そう。ユーミンは詞のみを提供しているものも多いとはいえ、アルバムまるごとというのは珍しい。しかも作曲は筒美京平、歌手は当時人気随一の郷ひろみとなれば当然力も入るだろう。何故この組み合わせが実現したのか、どのようにして作業をしたのか、詞先か曲先かなど気になることは多いが、今となっては分かりようもないだろう。言えるのはとにかくとんでもなく斬新な詞ばかりだということだ。まずオープニングの「午后のイメージ」は、「僕の部屋から見下ろす街」が「15世紀のロンドンみたい」だと始まる(いったいどういう雰囲気なのだろう)。ラジコン飛行機で原宿上空を旋回させて下界を眺めるという、今ならドローン空撮みたいなイメージだ。こんな歌詞、それまでの歌謡曲にはなかった。
 二曲目の「20才を過ぎたら」は、伊集加代子のスキャットから始まるお洒落なナンバーだが、詞の内容はほろ苦い失恋ソングである。冒頭から「君の好きだったウォルナッツアイスクリームをなぜか買ってしまったよ」と来る。こっちはそんなもの食べたこともないが。「恋のハイウェイ」ではハーレー・ダビットソンが出てくるし、「君のおやじ」ではNAVYとGROOVYで韻を踏み、壁のポートレイトがクラーク・ゲーブル(「風と共に去りぬ」でレット・バトラーを演じた男優)に似ているだの、もし仲良くなったら「カティーサーク」を一緒に飲みたいだの。独特の節回しでこの名を叫ぶスコッチウィスキーのTVCMが流行るのはもっとずっと後の話だ。「ライト・グリーンの休日」にはレオン・ラッセルが登場する。
 「宇宙のかなたへ」は1986年にハレー彗星と衝突して滅亡する地球からメタルのカプセルに乗って脱出するという話だし、「青ひげの男」は悪魔に魂を売った男が箒に乗ってサバト(悪魔の集会)に向かうところで終わる。筒美京平による全曲まったくタイプの違う曲に、これまた全て趣向を変えた詞を配している。中でも僕が大好きなのが「ウィスキー・ボンボン」。半音ずつ上下する京平節のメロディーにピタリと付いた詞が実に見事なのだが、「赤いペディキュアをソファーに投げ出し髪をかき上げる」というのが一体どういう情景か、全く分からなかった。国語の授業風に言えばこれは一種の「換喩」で、「赤いペディキュア」で「赤いペディキュアを爪に塗った素足」を表しているのだ。それをソファーに投げ出した、しどけない様子の描写なのだが、当時中二の僕はそもそもペディキュアが何だかも知らなかったのである。
 言葉と言い、サウンドと言い、今聴いても全く古くないし、どの曲も素晴らしい。単に歴史的価値にとどまらない、是非音楽好きに聴いて欲しいアルバムである。

コメント

  1. 安寿 より:

    こんにちは、はじめまして。

    以前に録り溜めをしておりました、NHKBSの横溝正史ドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」「(同作品の)深読み読書会」を観てから、他の方の感想は如何なのでしょうか?とネットを手繰っていましたところ、酔生夢死さんに辿り着きました。

    横溝正史、筒美京平、白内障手術等他、とても興味深い記事と読み易く分かり易い文章に惹かれました。これからも楽しみに読ませて戴きます。

    • 酔生夢死 より:

      安寿さん 数少ない読者になって下さり、有難うございます。これからもわかりやすい文章を心がけます。

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