7月6日
三島由紀夫に心酔しているような人に、「潮騒」が好きだと言うと大抵馬鹿にしたような顔をする。僕も三島は大好きだし、天才だと思っているが、最後まで調子が落ちず、結構の整っている長編は案外少ない気がする。その点「潮騒」は数少ない完成した作品である。
三島の小説としては最多の五回映画化されているが、その中で1971年の森谷司郎監督版は異色だ。主役の新治と初江の配役だけ見てもそれが分かる。54年版が久保明・青山京子、64年版が浜田光男・吉永小百合、75年版が三浦友和・山口百恵、85年版が鶴見慎吾・堀ちえみと「スター級」なのに対し、71年版の朝比奈逸人・小野里みどりは全く無名の新人なのである。この作品、僕は中学生の頃に深夜にTVで見たきりだったが、2014年の正月に日本映画専門チャンネルでノーカット放映されたのを録画することが出来た。この時の特集では、吉永小百合版以外すべて放映され、そちらはBSNHKで放映したので、短い間に全五本すべてを見た。ネット記事などで見る限り、71年版の評価はあまり高くない。だが、僕はこの作品が大好きなのである。
第一作から見ていこう。原作が刊行されたわずか四か月後に封切られた作品である。劇中の「歌島」のモデルである神島でロケが行われ、島民がエキストラとして参加している。だから、ここには三島が取材旅行の際に見たのと同じ風景と人物が写し取られていることになる(白黒なのが残念だが)。しかし、主役の二人はあまりにも都会的な美男美女で、周囲から完全に浮いてしまっている。特に久保明は、この男振りでは島の娘たちが放っておかないと思えるほどだ。また、原作では端役に過ぎない歌島丸の船長に世界のミフネ(三船敏郎)を起用したため、新治の船員としての成長物語という側面が強くなってしまった。黛敏郎の音楽はドビュッシーの「海」を意識していると思われるが、ちょっと暗い。三島が最も気に入っていた等と言われることがあるが、その根拠となる文章は第二作より前に書かれたものだ。
その第二作は、浜田光男と吉永小百合の「純愛路線」の一作だが、最初から二人の息がぴったりすぎ、まるで芸達者な学芸会を見るようだ。さらにひどいのが清川虹子演じる新治の母とみ。原作では、無駄話が嫌いで、人の噂をしたがらない女の筈だが、この映画のとみは口から先に生まれてきたような女で、新治より先に初江を見初め、嫁に欲しいと大騒ぎする。ストーリーの改変も多く、観的哨跡での出会いの場面で初江は蝮に噛まれる。この時の初江のうろたえ方や、新治に助けられた後の饒舌さも、原作とイメージが違う。もとより原作にこんなシーンはないが、初江は蛇に怖じるような少女ではない。まるで時代劇のような音楽も興趣をそぐ。
第三作は飛ばして第四作、これは中学生の頃に映画館で見た。三浦友和は二枚目だが、朴訥さもあって新治役はハマっている。原作通りに新治の側から描かれているので、初江の出番は意外と少なく、そのせいか山口百恵の固い演技も不自然に感じない。彼女が歌う挿入歌に合わせたイメージ映像が入ったりもする。ラストは花沢徳衛の親方が気を利かせて、新治が初江を漁船に乗せて沖へ出るという趣向だが、ここはやはり原作通りに、灯台でのシーンにしてほしかった。
第五作は、全作の中で一番尺が長い。以前も書いたのだが、何度も映像化された作品をリメイクする際、先行作品とは違うものにしたいと思うのはクリエイターとしては当然である。だが、その際に原作をしっかり読み込んでいないと、おかしなものが出来上がってしまう。この第五作はその典型だと思う。
さて、本題の71年版である。ドキュメンタリー風の美しい島の情景から物語に入っていく。新治役の朝比奈は本当にどこにでもいそうな青年で、ネットでは演技が下手と書かれていたが、僕には自然に見えた。小野里も不美人という書き込みがあったが、冒頭の夕日を浴びた顔は美しかった。手足が長く、胸板が厚いのは原作通り、他のヒロインは皆華奢すぎる。初江は村人の言葉の中で「別嬪」と言われているが、地の文では美しいとは一度も書かれていない。せいぜいが人口千四百の村の「別嬪」なのだ。山口百恵の時に、当時の芸能マスコミが「キスシーンはあるか」「(肌の)露出はどこまでか」などと騒いでいたのを覚えているが、原作通りにするには現役アイドルでは所詮無理なのである。この映画では原作に三回ある接吻のシーンも忠実に描かれ、クライマックスの観的哨のシーンでは初江は裸身を見せている。
新治が灯台長に届ける魚の種類(最初は平目、二度目は虎魚)、観的哨での出会いの時の初江の赤いセーターなど、細部にまでこだわっており、灯台からの帰るさ、村の発電機の故障が直り「暗い夜の中から村がよみがえ」るシーンなども原作通りに再現されている。島の風景にTVのアンテナが写り込んでいるのがおかしいという書き込みも見たが、この映画は原作の昭和20年代から、40年代に時代を変更しているのだ。新治がジーパンを履いていたり、村人が「ショックやー」などと当時の流行語を話したりもしている。行商人のハンドバッグの価格も時代に合わせて変えている。嵐の観的哨で二人が抱き合う場面では、初江の「あんたの嫁さんになることは決めたもの。嫁さんになるまで、どうしてもいかんなア」という拒絶の言葉を省略したため、そそっかしい視聴者はここで二人が結ばれたと誤解するかもしれない(初江は最後まで下穿きを取らないが)。制作者はそれでも構わないと思っていたようだ。昭和40年代には婚前交渉に対する世間の拒否感がほとんどなくなっていたためでもあろうか。
残念なのは導入部を丁寧に作り過ぎて後半は尺が足りなくなったのか、かなり駆け足になっている点だ。ラストシーンも灯台ではあるが原作のように夜ではなく、あっさりしたものになっている。この頃の邦画は、原則二本立てで、一本は約一時間半と決まっていたのである。それだけに時間の制約のない第五作が、その長さを生かせていないのが残念なのだ。
最後に一つ、大事なことを忘れていた。この映画の最大の魅力は全編に流れる、渋谷毅による劇伴音楽の素晴らしさである。アコースティックギターの主題曲や女声のスキャットボーカル、新治の胸の鼓動を表現したようなドラム使いなど、実に素晴らしい。サントラ盤が欲しいくらいだ。
コメント
私も潮騒については1度見た1971年の作品が一番だと思っているのですが見る方法がありません。よい方法があれば教えて下さい。
新治が巖に弾ける波を、バックに磯に立つ姿が、忘れられません。