「ふたりのウルトラマン」~「シン・ウルトラマン」

音楽、絵画、ドラマ

6月1日

 五月に二本の「ウルトラマン」を見た。一つは現在公開中の映画「シン・ウルトラマン」であり、もう一つはBSNHKで放送された「ふたりのウルトラマン」である。前者は昨年公開予定だったのがコロナ禍で遅れ、後者は今年の沖縄復帰50年を記念して、ウルトラマンの世界を作った沖縄出身の二人の脚本家を特集した番組。これらを同じ時期に見たのは偶然に過ぎないが、片やウルトラマンを現代によみがえらせた「リブート」映画、片やそのウルトラマンを作りだした人々の物語である。同時期にこれらを見たことには感慨深いものがあった。

ふたりのウルトラマン

 先に見たのは、「ふたりのウルトラマン」。ドラマ部分と、証言部分で構成されている(ネタバレ)。ドラマ部分は1965年、沖縄出身の上原正三が、同郷の金城哲夫(演・満島真之介)を世田谷の「円谷特技プロダクション」に訪ねるところから始まる。既に円谷英二の愛弟子として地歩を固めていた彼のもとで、上原も脚本を書き始める。円谷プロに集った多彩な人々との交流や「ウルトラマン」の成功が語られるが、その後円谷プロの経営状態は次第に悪化する。69年、金城は円谷プロを辞めて沖縄へ帰る。その後は沖縄海洋博の演出などを手掛けるが、76年に泥酔して転落死を遂げてしまう。その間に円谷英二とその息子で金城とは盟友だった一(はじめ 演・青木崇高)も亡くなる。
 ドラマパートはもう一つあり、60才になった上原(演・平田満)が沖縄に帰り、金城の墓に参ったり、金城の書斎に座って感慨にふけったりする。証言パートでは満田かずほ(のぎへんに斉)ら、金城や上原をよく知る人々が当時を語る。さらに、実相寺昭雄が66年に撮ったドキュメンタリー「ウルトラのおやじ」から、円谷英二・一・金城の生前の映像も挿入されている。
 ここで語られるウルトラマン創成期の雰囲気はこれまでにも映像化されたものと大差ない。英二のセリフなども実相寺の著書に書かれているのと同じだ。当時の円谷プロが一種の梁山泊だったのは事実だろう。ただ、実相寺がもっと若い頃に書いた「闇への憧れ」という本には特撮班への不満や様々な葛藤などもっとシビアに書かれていたという記憶がある(当の本をなくしてしまったので引用はできないのだが)。
 1970年頃は円谷プロとTBSにとっての大きな転機だった。一が円谷プロを継ぐと、経営はますます悪化し、古参のスタッフたちを解雇せざるを得なくなる。円谷はフジで「ミラーマン」を作るが、奇しくもその裏番組の「シルバー仮面」には、実相寺が円谷を辞めたスタッフを集めた「コダイグループ」が協力していた。一方、TBSでは大きな労働争議が起こった。実相寺の本にはその頃のTBS社内の暗さも書かれていたように記憶している。この時TBSを退社した人々が立ち上げた制作会社が「テレビマンユニオン」である。実相寺は参加しなかったが、仕事のない時に同社が製作する「遠くに行きたい」の演出をさせてもらったりしていたようだ。
 ドラマの中で、上原に向かって「いつまでジャリ番(子供向けの番組)」をやっているんだ」と言い放ったのは、(名前は出ていなかったが)市川森一だろう。彼は、自分のキャリアを語る際、デビュー作が「怪獣ブースカ」と書かれるのが厭でたまらないとも何かに書いていた。だが、ウルトラセブンへの思い入れは強かったようだし、実際「ひとりぼっちの地球人」等は僕も大好きだ。この発言は事実だとしても、それだけで彼が子供番組を馬鹿にしていたとは言い切れないだろう。
 近年よく「熟年」層をターゲットにした、昭和の回顧番組が放送され、「〇〇誕生秘話」だの、「私だけが知る〇〇の秘密」だのと言っているが、僕は眉に唾を付けることにしている。亡くなっている人は何を言われても反論出来ない。生きている人間だって都合よく記憶を書き替えたりしているものだ。
 この番組では、様々な資料を使って金城(と上原)に迫ろうとしているものの、かえって総花的になってしまい、なかなか像を結ばない。とはいえ、この番組で初めて当時を知る人にとっては充分に刺激的で面白い番組だったろうと思う。

シン・ウルトラマン

 (ネタバレ)。66年のTV版では、まず白黒でウルトラQのタイトルが出て、その後真ん中からスパークするように赤字に白のウルトラマンのタイトルが出る。映画ではまずシン・ゴジラ、それがシン・ウルトラマンに変わる。知らない人には何のことやら。これはオールド・ファンへの「くすぐり」だろう。次にものすごい速さと文字量で設定が説明されるが、全く追えない。日本に、ゴメス・マンモスフラワー・ぺギラなどの巨大生物が出現、これら人間に害をなす巨大生物を「禍威獣」と名付け、「禍威獣特設対策室(禍特対)」を設置して対策にあたることにした、云々。この禍威獣はすべてウルトラQに登場したものばかりで、これもくすぐり。それにしても「巨大不明生物」といい、よっぽど「怪獣」という呼称が使いたくないのだろうか。後では「外星人」などという聞き慣れぬ言葉も出てくる。
 禍威獣ネロンガが出現。映画のカトクタイは光線銃で戦ったりはせず、前線本部にノートパソコンを持って乗り込み、情報を分析して攻撃を指示するだけだ。神永(斎藤工)が逃げ遅れた少年を見つけ、単身救助に向かうと、そこに巨大なエネルギー体が飛来する。エネルギー体の正体は銀色の巨人で、クロスした手から放った光線でネロンガを仕留める。神永は生還する。
 この時の巨人=ウルトラマンの姿は何とも不気味である。実はTV版のウルトラマンのマスクは最初ゴム製で(途中から強化プラスティックに変更)、そのせいで口の脇に皺が寄った不気味な顔になっていた。それに似ていた気がする。もしもそこまで凝っているとすると、「くすぐり」の域はもう超えている。製作者たち自身がとんでもないマニアで、ただ作りたいように作っただけか。
 巨大な人型生命体が現れたことで、禍特対に専従の調査員浅見(長澤まさみ)が加わる。彼女は神永とバディを組むのだが、その神永の言動がおかしい。既にウルトラマンになっているのだ。禍威獣ガボラが現れ、滝(有岡大貴)は第6号のパゴス同様放射能汚染を起こすタイプの厄介な怪獣だと分析する。ウルトラマンはガボラを地上で破壊せず、宇宙空間に持ち去る。このガボラとネロンガ、パゴスは、もともと同じぬいぐるみを改造して使いまわした怪獣だというのもマニアには有名な話だ。地味な怪獣を選んだのはそのせいか。
 次は外星人ザラブが神永を監禁して、その間にウルトラマンになりすまして暴れるという、ほぼ元ネタ通りのエピソード。ここで驚くのはザラブによって、神永がウルトラマンであることが早くもばらされてしまうこと。神永は政府に追われる立場になってしまう。浅見が神永を助け、預かっていたベータカプセルを渡す。彼女はいったん偽ウルトラマンの手に落ちるが、すぐに本物に助けられる。
 神永に次いで今度は浅見も失踪、と思えば巨大化した姿で現れる。これは外星人メフィラスが、ウルトラマンと同じ「ベータシステム」を使ったデモンストレーションだった。彼は日本政府にこれを提供すると持ちかける。このメフィラス(山本耕史)と神永が、公園のブランコや居酒屋で会話する場面はなかなか面白い。禍威獣は、もともと地球人がどこまで脅威になるかを測るために彼らが仕掛けたものだという。昔読んだ横山光輝の「マーズ」を思い出した。ウルトラマンやベータシステムまで武器にしたいと考える人類など、滅ぼした方がいいという考えに分があると感じるのは僕だけだろうか。
 ところで、TV版の巨大フジ隊員は科特隊のコスチュームだったが、巨大長澤まさみはタイトスカートにハイヒールといういで立ちなので、ちょっとセクシュアルに見える。彼女の「体臭」で、ベータシステムを追跡するという話もなんだか。やはりこれは製作者の趣味を押し通した映画なのだろうか。個人の妄想なら「愚行権」で済むが、大スクリーンで不特定多数に見せるとなると、セクシュアルハラスメントのそしりは免れまい。
 シン・ゴジラの総理補佐官そっくりの人物(竹野内豊)が暗躍を始める。このあたりが「シン」たるゆえんなのだろうが、「米国(なぜかアメリカと言わない)の属国」という表現がやたら繰り返される。本家とはかなり異なる世界だ。金城哲夫は幼少期に沖縄戦を体験しているが、作品に政治的なメッセージを持ち込むことはむしろ嫌っていたようだ。そのあたりを上原正三は「傷が深ければ深いほど、そんな簡単に出すわけない」と語っている(Wikipedia「金城哲夫」より)。彼が書いた未来社会(パラレルワールド?)では、戦争や武力紛争は根絶されている。科特隊は国家組織ではなく確か国際警察機構の極東支部(?)という位置づけだったはず。
 メフィラスとウルトラマンの闘いは決着がつかず、「ゲームチェンジャー」のゾーフィ(ゾフィ)の登場で事態は急変する。ゾーフィはウルトラマンの兄などではなく、ウルトラマンを召還するためにやって来たのだ。この点は原点回帰だが、なんとウルトラの星では地球を破壊することに決定、最終兵器「ゼットン」を送り込むという。
 シン・ゴジラではチームでやっていたことを、滝がVRゴーグルをつけて一人でこなすあたりはご愛敬。この滝はとても天才科学者には見えないが、本家のイデだって似たようなものだ。最後は禍特対とウルトラマンでゼットンを消滅させることに成功するが、ウルトラマンは異次元に引き込まれてしまい、ゾーフィに助けられる。
 ラストは、昔のウルトラマンを見ていない人の方がすんなり理解できそうだ。神永を死なせるわけにはいかないというウルトラマンの願いをゾーフィは聞き入れる。つまりここでウルトラマンは死んでしまうわけだ。原作では、ゾフィは予備の命を携行しており、それをハヤタに与えることで二人を生かした。それを知っているだけに、この終わり方には意表を突かれた。だが、本当にウルトラマンは死んだのだろうか。原作では目覚めたハヤタはウルトラマンだった記憶を失っている。映画は神永が目覚めたところで終わるが、原作通りなら、彼は浅見を知らないはずである。
 かなりはっきり好みの分かれる映画だろう。CGはシン・ゴジラより粗い気がするが、ゴジラは基本摺り足で歩いているだけなのに対して、こちらは激しく動くし、特撮っぽさをあえて残しているようでもある。庵野ワールドは相変わらず。まだまだ見落としている所もあるだろう。もう一度観に行くか思案中だ。

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