「悪は存在しない」①

音楽、絵画、ドラマ

12月13日

 先月、日本映画専門チャンネルで放送していたのを録画して、もう10回くらいは繰り返し見ている。ロケ地が、僕がこの二十年くらい毎年訪れている八ヶ岳山麓から蓼科にかけてのエリアであるせいもあるのかもしれない。僕にとってはとても中毒性のある映画だ。
 濱口竜介監督による2023年の映画である。今の日本でこんな映画が作られていること、(主に外国からだが)真っ当な評価を得ている(ヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞受賞)ことはとても素晴らしいことだと思う。(以下、ネタバレ考察あり)。

 冒頭、森の梢を見上げた映像が上から下へスクロールするように移動していく。それが時々タイトルバックを挟んで4分間続く。カメラが切り替わると青いダウンコートにニット帽の女の子(花)が上を見上げている。ずいぶん大人びた完成した顔立ちの子だ。ここまでの映像はこの子の視点だったと分かる。女の子は雪の残る森の中を歩いているのだ。
 チェーンソーの音が聞こえ、場面が変わると男(巧)が台の上の丸太を切り分けている。それが終わると今度は黙々と薪割りを始め、次に割った薪を一輪車で家まで運ぶ。薪を積み終えて一服付ける。
 今度は車で移動する。害獣駆除を知らせる放送がバックにかすかに聞こえている。場面が変わると、男は沢で柄杓を使って水を汲んでいる。そこに別の男(後でうどん店の店主とわかる)がやってきて、「巧さん」と呼びかける。これが最初のセリフである。それから二人でポリタンクの水を運ぶ。車まで行くと発砲音が聞こえる。「近いですか」「いや」というようなやり取りがある。二巡目の途中で巧がオカワサビの群生に気付き、男に摘むように勧める。先に車まで戻ったところで巧は花の迎えを忘れていたことに気付く。男からは今晩の会合の約束を確認され、それも忘れていた巧は「忘れすぎですよ」と注意される。巧が小学校に着くと学童保育の女性は、花は一人で歩いて帰ったと言う。巧は車で追いかける。再び冒頭と同じ梢のスクロール映像。巧が雪の残る森の道を一人で歩いている。その姿がフレームアウトし、再びフレームインすると花をおぶっている。木の名前などを教えながら歩くうち、撃たれたらしい子鹿の死骸を見つける。鹿の水場のそばで山鳥の羽を見つけて、「先生が喜ぶ」と言う。
 その夜の会合は「先生」の家で、二日後に行われるグランピング場建設の説明会についてのものだった。若い男が、この会社は芸能プロダクションで、計画はコロナ助成金目当てのものだと言って憤る。先生は巧が渡した鳥の羽を「チェンバロに使える」と言って喜ぶ。家に戻った巧は花と母親らしき女性が写った写真を見ている。
 翌日、森を歩く巧と花。巧が山鳥の羽を拾っている時に、花は親鹿に連れられた子鹿を見る。巧は気づいていない。

 ここまでで、30分。映像は(音楽も)美しいとはいえ、はっきり言ってかなり退屈である。だが最後まで見ると、ここまでの部分に非常に重要な意味があることが改めてわかってくるのだ。

 人間関係などについてことさらな説明はなされない。巧と花が親子なことは間違いないのだろうが、写真の母親はどうしたのか。亡くなったのか離婚したのかも結局最後までわからないままだ。物語を作る立場から考えるとこれはかなり「非常識」な映画である。

 僕は今「いよなん」という文学グループに参加しているのだが、このグループはもともと「シナリオ・センター」でシナリオを学んでいた人たちが作ったものだ。メンバーたちは今も、各種のシナリオコンテスト等に応募している。僕もかなり彼らの作品を読ませてもらった。そこで思うのは、この映画のシナリオをこれらのコンテストに出しても、おそらく一次選考すら通過しないのではないかということだ。

 この後のグランピング場建設の説明会から話が大きく動き始めるのだが、すでにかなり長くなったので、この先については稿を改めることにする。

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