「愛おしい日常」

詩、ことば、文学

1月9日

 すごい文章を読んだ。僕がずっともやもやと考えていて、まとめられなかったことを、平易な表現でほぼ完璧に説明してくれているのだ。

 朝日新聞1月7日朝刊のオピニオン欄に載った「愛おしい日常」という文章である。書いたのは小山田浩子という芥川賞も獲っている作家だが、実は僕はこれまで一作も読んだことがなかった。
 この「愛おしい日常」というのはもちろんアイロニカルな意味で使われている。誰もが最も大切なのは日々の生活=日常であると思っているが、一方で人間は異常な状況も、それに慣れれば簡単に日常に変えてしまう。コロナ禍での「新しい日常」がそうだったし、ここ二三年の夏の明らかに異常な、生命に危険を及ぼす暑ささえも既に日常になりつつある。小山田はこう書く。「朝は明るいものだと私たちは思っているが、いつか朝になっても明るくならない日が来るかもしれない。そもそも朝は来ないのかも、でも、それもまた日常になってしまえば、大丈夫、私たちはそれをどうにかしようなどと躍起にはならない。日常はいつでもとても強い」と。

 ところで、僕は常々「リベラル」とか「人権」という言葉がなぜ(一部の人から)忌み嫌われるようになったのかとても不思議だった。二十年前なら考えられないことだ。しかも、本来ならむしろ人権救済されることが必要と思われるような人にその傾向が強いのだ。僕は単純にプライドを傷つけられたくないからかと思っていたのだが、小山田はこの心理も「日常」をキーワードに解き明かしてくれている。

「本当はとても奇妙で不条理なことなのに、それが当たり前に生活に組みこまれたら私たちはそこから抜け出せない。(中略)いま私は日常中なので、日常の外にあることは知りません見ません聞きません日常が維持できなくなりますので、という態度もまたごく自然に促す」
「誰が悪いのでもない。人間はそういうふうにできていて、日常の外に意識が行くことは異常なのだ。異常なことをすると排除される。私の日常にケチをつけるのですか、私は私で一生懸命やっているのに何様ですか、そんなことを言うなら政治家にでもなって解決策を出してごらんなさい出せないなら黙って日常をやりなさい、うるさいデモで道路を塞がないで」

 特撮ヒーローものからの考察部分も面白い。宇宙からの侵略者に襲われたばかりの町でオープンカフェでデートしようとは普通はならないと指摘してから、「もちろんそれはお話の都合だと分かってはいて、しかし考えてみると、単にお話の都合だけじゃなく人間とはこういうものなのかもしれないなとも思う」という。

「これはこれで日常なのだと日常を維持し続け、運が悪かったらアレだけどまあ多分うちらは大丈夫。その外にある抜本的な解決策、長期的にどうすれば少しはマシになるのか、みたいなことは自分たちの日常の外に置いておく。誰かが(ヒーローが)やってくれる」

 かくして、日常への執着は容易にヒーロー出現への期待とつながる。高市政権への、僕には異常と思える高い支持率も、この流れで説明できるかもしれない。だが、現実世界にヒーローなどいない。日常に入り込んだ異常を解決するためには、一人一人が行動しなければならないのだ。今のままでは、

「その日常の日々が歴史となってから後世の人(いればだが)に、どうしてこの時代の人々はこんなに愚かな選択をしたのかあるいはなにも事態を変えようとしていなかったのか声を上げなかったのかと首を捻(ひね)られるだけだ、私たちがいままで起こった戦争や絶滅や虐殺について学んだとき思うのと同じように」

となってしまうだろう。恐ろしいことだ。

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