12月14日
(前項の続き、①から先にお読みください、尚ネタバレ考察あり)。
公民館で行われた説明会に、東京の会社から男女二名の社員(高橋と黛)がやってくる。質疑応答になり、うどん店の店主が口火を切って多くの疑義が出される。巧は合併浄化槽の位置を問題にする。保養所の管理人だったという女性は管理人が常駐しないことを問題にして山火事の危険を指摘する。若い男がこの説明会はただのアリバイ作りだと喧嘩腰に指摘して高橋と一触即発になり、巧が止める。黛が場を収めるように皆さんの声をもっと聞きたいと言うと「先生」が語り始める。彼はこの地域の区長だったのだ。
花はその間、ずっと森を歩いて山鳥の羽を探していた。会場を後にする先生に拾ってきた羽を渡す。その日の夜、巧は東京から来た高橋と黛の似顔絵をノートに書いている。花がかまってほしそうにするが取り合わない。
東京に戻って社長に報告する高橋と黛に、リモート参加のコンサルは、施設の建設は予定通り行い、巧に管理人になってもらえばいいと提言する。それを聞いた社長は「善は急げ」と二人に再び現地に行くことを命ずる。
この社長とコンサルを「悪」と認定すれば話は早いのだが、話はそう簡単ではない。この社長はコロナ禍で経営に行きづまった会社を救うために必死なのだし、コンサルにしても純粋に利益を追求しているだけで別に違法なことをしているわけではない。
高橋と黛が再び現地に向かう中央道の車中で会話する場面はこの映画の中の白眉だと思う。わずか8分ほどだが、大げさに言うとここに今の日本社会が凝縮されているのだ。是非実際に見て確かめてもらいたいので詳細は書かない。ただとにかく濱口監督の端倪すべからざる才能の一端を感じる。回想やイメージ映像を挟まず、語りだけでこれが表現できることの凄さ。今は何でも映像で表現が出来てしまうせいか、普段見慣れているTVドラマなどの表現は過剰にわかりやすいのだと思えてくる。
ちょっと話はそれるが、TVドラマなどを見ていて一番シラケるのが、複数の人物がまるで出番を待っているかのように代わる代わる一人ずつ話すような演出で、見ていて「白波五人男かよ」とツッコミを入れたくなってしまうのだ。
この濃密な8分間で、都会から来た開発者=悪と先住の人たちという二項対立の構図が崩れる。高橋には思慮の浅いところがあるが、基本は善意の人間なのだ。また、先の説明会でも巧は「開拓三世」で、自分たちも余所者であることは同じで、自然破壊もしてきたと語っていた。タバコを吸い、四駆で走り回る彼は決して環境の守護者などではない。
高橋と黛に対して巧ははっきりした意思表示をしないまま、うどん店で一緒に食事をし、二人を連れて水くみに向かう。そこでまた花の迎えを忘れていたことを思い出して小学校に向かうが、今回も花は歩いて帰ったと言う。花を探すうち、黛は手に怪我を負ってしまう。黛を巧の家に残して二人は捜索を続ける。やがて集落の人々も花を探し始める。そして「不可解な」ラストに繋がってゆくのである。
ラストの花の遭難には、東京から来た二人の責任はない。普通に考えれば一人で帰してしまった学童保育の女性にも問題があるが、一番責任があるのはお迎えを忘れた巧だ。巧は花を大切にしているのに、なぜかいつもお迎えを「忘れて」しまうのだ。また、花は子鹿と遭遇したことを巧に話したかったに違いないが、巧は聞いてやらなかった。聞いていれば花が森を一人で歩く危険を察知できたかもしれないのに。
うどん店で巧は、建設予定地は鹿の通り道で鹿避けには3メートルの柵が必要だということを話す。だがなぜ彼はこんな大事なことを説明会で話さなかったのか。おそらくこれも単に忘れていただけなのだろう。彼は冒頭でも「忘れ過ぎ」と指摘されていた。
車内で巧は、施設が出来たら鹿はどこへ行けばよいのかと言う。高橋はどこか別の場所に行くだろうと応じる。巧は黙って煙草に火をつける。高橋は窓を細く開ける。この動作はここに来る車中で黛に言われた言葉に呼応しているのだが、なんとも示唆的である。
巧と高橋は草原で、鹿と向かい合っている花を発見する。巧が高橋を襲ったのは、善意に解釈すれば鹿に不用意に近づこうとする高橋を止めるためだろう。だが、失神するまで締め上げる必要はない。まるで鹿の怒りが乗り移ったかのようだ。高橋はその後一度目を覚ますが、再び倒れ込む。死んでしまったのだろうか。
鹿に襲われて血を流して倒れていた花を抱えて巧が走る。鹿は人を襲わないと巧は言っていたが、手負いの鹿で、親鹿が一緒で、しかも相手の人間が弱い子どもなら襲うことがある。そのことに巧はもっと早く気づくべきだったのだ。
森の梢のスクロール。巧の嗚咽のような息遣いが重なり、また「悪は存在しない」というタイトルが出て映画は終わる。1時間46分の作品である。

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