8月30日
村上春樹の「夏帆」を読んだ。3年ぶりの長編小説である。前作「街とその不確かな壁」については、以前この欄で感想を書いている(2023年5月31日)。その他、初期の短編「納屋を焼く」について、「小説の愉しみ(2023年7月7日)」という投稿で言及しているほか、短編集「神の子どもたちはみな踊る」を原作としたドラマについても二度にわたって論評した(2025年4月15日、27日)。
新作が出るたびに、今度こそはやめようと思うのだが結局手を伸ばしてしまう。今回は女性を主人公にした初の長編という触れ込みで、その点に関して比較的好意的な評価が多いように感じられたことも手に取った理由の一つではある。
僕にとって村上春樹が常に気になる作家であったことは間違いない。まだ二十代の頃、「中国行きのスロウ・ボート」の文庫本を電車の中で読んでいたことがあった。中の「貧乏な叔母さんの話」の少女と帽子のくだりを読んでいて涙が滂沱と溢れて止まらなくなってしまった。周りからは奇異の目で見られ、とても恥ずかしかったのを覚えている。後から読み返しても少しも泣けない。あれは何だったのだろうかと今も不思議に思う。
さて、今回の「夏帆」である。帯文には「女性を主人公にした初の長編小説」とある。「1Q84」の青豆は? と言いたくなるが、この作品の場合は男性の天吾というもう一人の主人公もいるので、あくまで「単独では」という意味なのであろう。短編・中編では例えば「ハナレナ・ベイ」のサチなど、魅力的な女性主人公も多く登場すると思うが、これもあくまで「長編としては」ということなのだろう。
そこではたと疑問を感じた。今回の「夏帆」は長編だろうか。
もちろん分量的には堂々たる長編である。章立てを見るとかなり特異な構成になっていることがわかる。第一章「夏帆とモーターサイクルの男」が単行本の正味で24ページ。第二章「武蔵境のありくい」が同じく76ページ、第三章「夏帆とシロアリの女王」が90ページ。最後の「守護天使、象の卵とスカーレット・ヨハンソン」が147ページである。後に行くほど一章の分量が増えていくのだ。
調べてみると、全体のスタートとなる第一章は、2024年3月に早稲田大学で催された「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」というイベントで村上自らが朗読した作品をもとにしているという。改めて第一章を読み返してみると、主人公の夏帆が、「ブラインド・デート(みたいなこと)」で知り合った男に対して、
「間違いない。この男は夏帆の心の動きを瞬時に残らず読み取っている。まるでありくいがその細長い舌の先で、シロアリの巣をきれいに舐め尽くすみたいに。(中略)彼女が思い浮かべたのは黒くて大きな雌のありくいだった。ありくいも頭を上げ、その大きな黒い目で彼女の方を見やった。その瞳には明らかに好奇の色が浮かんでいた。あなたはこんなところで何をしているの?(10ページ)」と思うという場面があった。
すでにここにアリクイとシロアリという本編の二大メタファー(?)が登場しているのだ。二章以降の物語はすべてここに端を発すると言ってよいだろう。武蔵境もブラジルのジャングル(なぜかアマゾンという言葉は出てこない)も、すべて主人公(女性の絵本作家)の内面世界だということになる。
最初が朗読(村上春樹は力を入れているようだが)というのも、この作品の「文体」に影響しているように思える。耳で聞いてわかる文章というのは、ページ上を行きつ戻りつしながら意味を考えないと読めないような文章とは全く違ってくる。「夏帆」は全編が朗読に耐えうる文章で書かれており、だからストレスなくスラスラ読める。読めてしまうのだ。ありえないような展開も村上ワールドなら何でもありだし、猫の名前がなぜかスカーレット・ヨハンソンだというような思わせぶりな換喩(?)については、もはや意味を考えるだけ無駄だと分かっている。
短編をもとに長編化するというのは、前作の「街と…」がそうだったし、「ノルウエイの森」(「蛍」を長編化したもの)、「ねじまき鳥クロニクル」(「ねじまき鳥と火曜日の女たち」)もそうだ。そしてそのすべてについて僕は短編の方が好きなのだ(「街と…」の元となった短編については読んでいないが、この作品に対する僕なりの評価は前回の記事に書いた通りだ)。
「夏帆」という作品は長編に昇華しきれていないのではないか、という気がしてならない。
この作品の「解釈」についてはすでにネット上にあふれている。母と娘の相克というテーマはわかりやすく(わかった気になりやすいともいえる)、どの解釈もそれほど的を外してはいないのだろう。だが、解釈と作品の価値は別の話だ。今回の僕の感想は350ページを読んだとは思えないほど「何も残らなかった」ということに尽きる。もちろん、だからこの作品がダメだと言いたい訳ではない。

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