「静かな生活」②

詩、ことば、文学

2月4日

 (①から先にお読みください)伊丹十三による映画の方を見てみよう。原作小説は6篇の短編から成っているのだが、映画に採用されているのはそのうちの4篇だ。各エピソードはかなり原作に忠実で大きな改変はないが、バランスはずいぶん原作とは違っている。最後の「家としての日記」が突出して長く、全体の半分を占めているのだ。その「家としての日記」はこのような話である(以下ネタバレ)。
 作家である父が母とともに、兄妹を置いて海外に行っている間、マーちゃんはイーヨーを連れて父の契約する会員制プールに通うことにする。新井君という青年がイーヨーのコーチをしてくれ、イーヨーの水泳は目覚ましく上達する。そのことをKに報告すると、Kは驚いて、今後プールに行く際はイーヨーの音楽の先生である団藤氏(原作では重藤氏)に一緒に行ってもらうように頼む。実は新井君は、以前Kに、小説のモデルとして悪く書かれたことを恨んでいたのだった。
 この、新井君をモデルにした小説というのは、「『雨の木(レイン・ツリー)』を聴く女たち」の最後に置かれた「泳ぐ男ー水の中の『雨の木』」のことだ。重要なエピソードが、ここではKが、金を払って新井君から買ったノートをもとにしたものだということにされている。もとよりフィクションだし、独立した別個の作品とは言え、これでは自分で自分の書いたものを貶めることにならないのだろうか。
 ちなみに、新潮文庫の裏表紙にある内容紹介ではこの部分を「若者を性の暴力にむけて挑発しながら、いったん犯罪がおこると、優しい受苦の死をとげて相手をかばう娘」などと書いている。文庫の惹句などは著者のあずかり知らぬことだろうが、それにしてもこのまとめは粗雑に過ぎる。実際に読んでみてもこれがまた良くわからない話なのだ。ここでの新井君は「玉利君」といい、「僕」が通うプールのサウナで、年上の女性から乳房や性器を故意に見せられるなどの挑発を受けている。ある日その女性がバス停のベンチに下腹部をむき出しに縛りつけられて殺害されているのが発見される。犯人は中年の高校の英語教師で、彼は犯行後すぐに自殺しているのだが、実際に彼女を縛ったのは玉利君だった。中年男は玉利君の罪を引き受けたのだと、「僕」は自分と中年男を重ね合わせて想像する…。
 この小説部分を再現した「暗い」場面が映画全体のクライマックスに当たる位置に置かれているのは偶然ではなかろう。基本コミカルな映画の中でなぜかここだけ異様なほど暗いのだ。新井君(玉利君)は、自分の気持ちを言葉にできない高校生に変換され、女の子も小説のように彼を挑発などはしない。異様なのは彼が女の子を殺し、中年男がその罪を引き受けた後だ。軍用トラックみたいなバスから、大勢の男たちが手に手に得物を持って中年男を追いかける。中年男が首にロープを巻いて鳩小屋の屋上から飛び降り、鳩が一斉に飛び立つ。
 本編に戻る。新井君は団藤氏に暴行したのに続き、マーちゃんにも牙をむくが、危機一髪の場面をイーヨーが助ける。イーヨーは「私は戦いました!」と言う。図式的に言えば家(父)長たらんとして無残に失敗したKと、その留守にりっぱに「家」を守った兄妹が対比されているのだが、ここで「家」とはそもそも何か、イーヨーは何と戦ったのかという疑問が生じる。
 この映画の「障害者」の描き方や、マーちゃんも含めた周囲の類型的な描き方には疑問を感じる(時代もあるとはいえ)。また、本筋と関係ないが、プールで泳ぐ女性に相当ふくよかな女性を並べた演出(「絵的」な面白さを狙ったのだろうが)などにも、伊丹十三という人の、どこか世間を冷笑的に見る視線を感じてしまうのだ。「お葬式」や「タンポポ」の頃はそれが新鮮だったが、この映画の頃にはもうすっかり食傷してしまっていたのを思い出した。
 「静かな生活」は大江としてはかなり「読みやすい」ほうの作品だが、それゆえに彼の限界をわかりやすく露わにしたのかもしれない。それを伊丹十三の映画がさらにわかりやすく示してくれたという気もする。「『雨の木』を聴く女たち」で救済されたはずの玉利君(新井君)は、むしろより大きな闇を抱えており、しかし最後はせいぜいクラブから除名されるだけで終わる。つまり、マーちゃんたちの「家としての日記」の世界(=大江的世界)からは排除されるのである。作中では重藤夫人(映画では団藤夫人)に、「Kちゃんは自分を特別な存在だと思っている」と批判させているが、これを書いているのも作者だ。後期作品では作中の女性たちに自分を批判させたりもしているが、くどいようだがそれを書いているのも全部作者自身なのだ。僕は大江健三郎の作品をずっと楽しんで来たし、思想的にも共鳴するところが多いのだが、時として鉛を呑むような気分になる。その正体は、自分の世界と相容れない人間を「あのようなタイプの人」と切って捨てるようなあり方だったのかもしれないと思った。

コメント

タイトルとURLをコピーしました