「光る君へ」と源氏トリビア⑤

詩、ことば、文学

3月28日

 (ネタバレ)「寛和の変」の後はしばらく大きな政変もなく、どうやってつなぐのだろうと思っていたが、やはりこの脚本家(大石静)はただものではないというか、いろいろな小技を仕掛けてきた。なんといっても一条天皇即位式の「生首」。以前このドラマでは「大鏡」のエピソードをほとんど拾っていないと書いたが、これはおそらく「大鏡」にしか出てこない話だ。しかも「一条紀」でも「兼家伝」でもなく、巻末のよもやま話として出てくるのだ。「大鏡」ではただの怪異譚だが、ドラマでは花山院の呪詛を匂わせていた。また、道長の「変化」を感じさせるエピソードに仕立てていたのもさすがだった。
 もう一つ笑ったのがまひろの婿取り話で、実資が候補に挙がったこと。あげく実資が赤痢になって、話を進めた宣孝(演‐佐々木蔵之介)が「だめだ、あれは半分死んでおる」という。

まひろは道長と結婚できないか

 ところで、道長の求婚をまひろが拒んだことについて、視聴者の意見が分かれているようである。あえて両極端を拾うと、「まひろに妾(しょう)になれと言う道長は非情」という意見と、「道長の北の方(嫡妻の意味だろう)になれると思うまひろがの方がおかしい」という意見の対立である。ちなみに「妾(しょう)」という呼称は僕はこの番組で初めて聞いた。僕は、嫡妻以外はすべて「妾」と捉える感覚がそもそも間違っていると思う。勿論制作側はそんなことも織り込み済みなのだろうが。
 例によって、遠回りの説明をする。藤原道長の嫡妻は源倫子で、源明子が側室と一般にいわれている(僕も確か前回投稿でそう書いた)が、これには異論もある。実は道長の妻になったのは、源明子の方が僅かに先だったらしいからである。当時は「最初に結婚した女性が嫡妻」という暗黙のルールがあったようだ。では、その場合倫子は「妾」になるのかというと、勿論そんなことはあるまい。嫡妻以外は全部妾(めかけ)などという感覚はこの頃にはないし、その妾にしても「日陰者」などというイメージはない。はっきり言って道長の「妾」なら大方の人はうらやむだろう。
 そもそも当時は婚姻届けを出すわけでもないし、戸籍簿のようなものに嫡妻とか妾とか書かれるわけでもない。当時の婚姻は同じ女性のもとに三日連続して通うと成立した。
 源氏物語「総角」の巻では、匂宮が宇治の中君のもとへ通う三日目に母の明石中宮に足止めされるが、薫の助けで何とか通うことが出来、来訪が遅いので気をもんでいた中君方が安堵する。これで婚姻が正立したわけだ。だが、明石中宮はその後も、宇治の中君は「召人(情交関係にある侍女)」にして、左大臣家の姫と結婚するように匂宮に迫る。このあたりはなんだかドラマの中の詮子(吉田羊)の道長への迫り方にそっくりだ。なるほど源氏物語はこういうところにも投影されているのか。確かにこのドラマの状況では、まひろが道長の「北の方」になることは、周囲が許してくれないだろう。
 最初の投稿で書いたことだが、このドラマでは紫式部の家を「下級貴族」としているが、事実は違う。父為時は散位(無官)が長いとはいえ、彼の父も、二人の兄も国司であった。国司は位階は低いが、経済的には恵まれている。道長たち兄弟の母である時姫も国司の娘である。この当時、貴族の豊かさは受領(国司)に支えられていたのだ。兼家も時姫の財力に目を付けたのかもしれない。
 ドラマでは源倫子の母穆子(演-石野 真子)が為時の「遠縁」と紹介されていたが、実は時姫(演-三石琴乃)も同じく「遠縁」である。まさに「公家は蜘蛛の巣」なのだ。そして、ドラマでは道兼に殺害されてしまう式部の母は、中納言藤原文範の孫に当たる。この人は長生きで、一条朝まで現役だった。つまり道兼は「虫けら」どころか、この時の自分(まだやっと従五位下といったところ)より、はるかに高位の上達部の孫を殺したことになってしまうのだ。
 実際の紫式部は、市中を駆けまわったりせず、外出は牛車だっただろう。勿論野菜を育てたり、雑巾がけしたりなどしない。倫子のサロン仲間から馬鹿にされるほど低い身分ではないのだ。
 だから道長は、まひろと六条の廃院で密会などせず、堂々とまひろの家に通えばよかったのだ。三日通えば婚姻が正立する。まひろは道長の「嫡妻」となり、あとで倫子や明子が道長の妻となってもその地位は揺るがない。…のだが、それではドラマにならないし、そもそも歴史が変わってしまう。「源氏物語」も書かれずに終わるかもしれない。

源氏物語の中の婚姻形態

 源氏物語で、婚姻や妻の呼称はどう描かれているだろうか。光源氏の嫡妻は「葵上」である。左大臣家の姫だが、結婚した光源氏は左大臣家には住まず、母の里邸を改修した「二条院」に住んでいる。物語では葵上を北の方とは呼ばず、左大臣家を表す「大殿(おおいとの)」と呼ぶことが多い。源氏は病気の祈禱を受けるために行った北山の某寺で美少女を見出し、なかば略奪するようにして二条院に連れて来て養育する(後の紫上)。葵上の死後、彼女が嫡妻になる。二条院の西の対の屋に住んだので「対の上」と呼ばれている。源氏が四町からなる広大な「六条院」を造営すると(一町は約120メートル四方)、「春の町」に住んだため「春の上」と呼ばれた。「藤裏葉」巻で、「かくて、御参りは 北の方添ひたまふべきを(さて、((明石の姫君の東宮への)ご入内には、北の方(である紫上)が付き添うべきだが、)」と、「北の方」が出てくる。ここでは「正室」である紫上という意味で使われているのだが、紫上を北の方と呼んだ例は多分他にはないと思う。「嫡妻」である紫上の地位は、朱雀帝の女三宮が降嫁して来ても変わらない。物語の中で女三宮は、「宮」「女宮」「二品の宮」、出家して後は「尼宮」と呼ばれる。
 光源氏の長男・夕霧の場合は、頭中将の娘・雲居雁が嫡妻であり、本文中には「北の方」という表記も見える。また、源氏の従者だった惟光の娘(藤内侍)が五節の舞を舞った時に見初め、彼女も妻としている。親友の柏木(頭中将の長男で、不義の子薫の実の父親)の未亡人である朱雀帝の女二宮(落葉の宮)に同情して面倒を見るうち、彼女に恋してしまう。雲居雁が嫉妬して家庭争議になる。藤内侍から慰めの歌が送られてきて、雲居雁は彼女が妻妾としてこれまで耐え忍んできた気持ちを初めて少し理解する。夕霧の子どもは雲居雁に七人、藤内侍に五人いて、藤内侍の子の方が器量が優れている、とある。後の「匂宮」巻では争議は解決していて、落葉の宮は夕霧が光源氏から相続した六条院に住んでいて、夕霧はここと雲居雁の屋敷を交互に月十五日ずつ通っている。藤内侍には触れられていない。
 光源氏の孫・匂宮は前述したように八宮の中君と結婚するが、その後夕霧の六の君とも結婚する。匂宮は気難しい夕霧が苦手で最初は気が進まないが、六の君の美しさを見て夢中になる。この六の君は藤内侍の産んだ娘なのだが、箔を付けるため落葉の宮の養女になっていた。中君は夫の夜離(よが)れに苦しむが、やがて子供も出来て身分も安定する。尚、この巻では中君を「兵部卿宮(匂宮のこと)の北の方」と呼んでいるところがあり、六の君は単に女君とだけ呼ばれている。
 妻を指す言葉はたくさんあり、嫡妻、妻妾の他にも、本妻という言葉もよく使われ、しかもこれは一人ではないようだ。正室・側室などという言い方もある。「北の方」は、寝殿の北の対の屋に住んだことが語源だが、イコール嫡妻とは必ずしも言い切れない気もする。それぞれに使っている人ごとの定義が違っている可能性もある。
 言えるのは「北の方」になれば安泰というわけではないということだ。むしろまひろは「自分だけを妻にしてほしい」と言うしかなかった。それは現代の日本なら当たり前のことだが、この時代にはむしろ非常識だったのだ。

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