6月29日
6月26日の朝日新聞「天声人語」は一風変わった内容だった。日本人は際立って「デモ嫌い」だというのである。「この国には政治的な活動にかかわる人を忌避する傾向があるらしい。自由なデモは民主主義の基盤なのに、デモに参加すると調和を乱すと思われる。何と理不尽なことか」と書かれていて膝を打つとともに、昔のことを思い出した。
1984年に就職して、その5月1日に代々木公園のメーデーに初めて参加した。デモの隊列は代々木公園をスタートしていくつかのコースに分かれるのだが、確か僕の参加したコースは溜池を通って新橋駅がゴールだった。とにかく夥しい人で渋滞して、隊列が全く前に進まない。沿道のお店はこの日だけは特別に昼から開いていて、「生ビール、冷えてますよ」などと声が掛かる。次々と脱落者が出る。僕はなんとか落伍せずに夕方に新橋に着き、その後職場の人たちとグラスを合わせて健闘をたたえ合った。
その後、いわゆる労働戦線の再編があり、「連合」は5月1日にメーデーをやらなくなってしまったが、都労連が主体になって「日比谷メーデー」を始めた。僕は都立高校の教員だったので、こちらに毎年参加した。日比谷野音を出発して、銀座の目抜き通りを歩き、東京駅周辺がゴールとデモのコースはだいぶ短くなったが、それでも当初は賑やかだった。この日比谷メーデーも野音の改修のために今年で最後だったらしい。
以前は多くの都立高校が5月1日には芸術鑑賞教室などの行事を入れていたが、それは多くの職員がメーデーに参加できるようにするためで、居残り組の教員たちも行事終了後にはメーデーに合流して年に一度の「労働者の祭典」を祝ったのだ。だがそのメーデーもどんどん先細りになって行った。それまでメーデーには「職免」、つまり「職務専念義務」を免除されて参加することが一定数の組合員には認められていたのだが、それが廃止された。メーデーに参加するためには休暇を取らなくてはならなくなったのである。5月1日に学校行事を組むこともだんだん難しくなった。少ない人数でデモ行進していると沿道から「税金泥棒!」などと罵声を浴びせられることも増えた。当然彼らは僕たちが公務員の組合だと知っているのである。
天声人語に話を戻すと、作家の雨宮処凛が朝日新聞デジタルにコメントを寄せていた。「『お前ら日本人じゃないだろ!!』/10年ほど前、デモに参加していると、沿道の人からそんな罵声を投げかけられました(中略)それ以来、他のデモでも沿道から「日本人じゃないだろ!」と罵声を浴びるようになりました/罵声を浴びせる人は、国などに物申す人がおそらく気にくわないのでしょう/しかし、それで口をつく言葉が「日本人じゃないだろ」ということに、非常に危うさを感じます/一方、「気にくわない」人々を「日本人じゃない」と切り捨てるような空気は最近、さらに強まっている気がして、それはどこから来るのだろうと思いました(後略)」
以前、「社会の昏さ(25.3.26)」という投稿にも書いたが、今社会に不満を持つ人たちのはけ口が財務省に代表される「公務員」と「外国人」になってしまっている。僕の体感ではいわゆる「公務員バッシング」が盛んになったのは、バブル崩壊後である。バブルに狂奔して「社用」で一貫一万円以上もするような高級な寿司を食ったり、タクシーは使いたい放題だったりという生活を謳歌していた人たち(いわばキリギリス)が、一転してリストラの嵐に曝されるようになると、地道に権利を守ってきた公務員労働者たち(アリ)を憎悪するようになったのだ。当時保守派の論客が、政府や経営者に不満が向かわないようにするために「日本をダメにしたのは日教組・朝日新聞・岩波書店」などと言う奇怪な主張を始めた。日教組が凋落した今は「自治労」がターゲットにされているようだ。公務員の組合だからである。さらに陰謀論の世界では、自治労のバックには「中国」がいることになっているらしい。公務員バッシングと外国人ヘイトの見事な融合である。
さて、「デモ嫌い」な人は当然ストライキも嫌いだろう。かつては春の風物詩だった交通ストもなくなり、百貨店が一日だけストをやっただけで大きなニュースになるようになってしまった。「政治的な活動にかかわる人を忌避する」で言えば、芸能人などが政治的な発言をするとバッシングを受けることも顕著だ。不思議なのは保守的な発言をする芸能人はあまり叩かれない。雨宮が言うところの「国などに物申す人」が叩かれるのだ。
斉藤元彦兵庫県知事をめぐるSNS上の対立をずっと観察しているのだが、知事を擁護する人たちに共通する特徴が見えてきたように思う。一つは「知事を批判する人たちが嫌い」ということで、ここには批判デモ等への嫌悪も当然含まれる。もう一つは「公務員天国」「税金泥棒」のような言い方で、県庁の職員たちを批判する風潮だ。今回のことは、ぬるま湯につかっていた公務員たちが、清廉な知事を貶めようとしているのだというような解釈である。もちろんそういう絵を描いている人がいるのだろう。天声人語氏の言う「プロパガンダに対する日本社会の『脆弱(ぜいじゃく)性』」がここにも垣間見える気がした。
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