6月14日
「星を編む」を読んだ。「流浪の月」に続く著者二回目の本屋大賞受賞作「汝、星のごとく」の続編にあたる作品である。帯文には「『汝、星のごとく』で語り切れなかった愛の物語」とある。「汝、」の前日譚に当たる「春に翔ぶ」、主人公の一人である青埜櫂の担当編集者たちを描く「星を編む」、そして後日譚の「海を渡る」の三つの中編からなっている。(以下ネタバレを含みます)。
「汝、星のごとく」はこの欄でも取り上げ(2022.10.11)、「充分に伝統的で真っ当な恋愛小説」だと書いた。一組の男女が(異性であることが恋愛に必須という考え方は現代においてはアップデートが必要かもしれないが、取りあえず)お互いを思い合いながらも、時にどうしようもなく擦れ違ってしまう過程を丁寧に書いている。これだけしっかりした恋愛小説は、比較的最近僕が読んだ中では、平野啓一郎の「マチネの終わりに」ぐらいである。
大分昔、僕が若い頃に「男女7人夏物語」というTVドラマがあり、当時結構流行ったらしい(僕は全く観ていないのだが)。多分「7人」というのがミソで、必ず一人があぶれる。集団内の恋の駆け引きみたいなストーリーの先駆けだったのだろう。今なら「恋愛リアリティーショー」がそれにあたるだろうか。こういうものが好きな人は多いようだし、それはそれで面白いのだろう(僕は観たいと思わないが)。しかしやはり一組のカップルの、心の襞のようなものを繊細に描き切ってこそ本物の恋愛小説なのだと僕は思っている。
さまざまなコンテンツが溢れる現代において、それだけで読ませるのはかなり困難だ。「汝、星のごとく」では、北原先生という最後までファーストネームも年齢も明かされない人物の存在失くしてはこの物語は成立しなかった。だが彼のここに至るまでの過去に何があったかは「汝、」の中には一切書かれていない。切り捨てられているのだ。だから僕はこの時の投稿で「捨象しなければこの小説は成り立たない」と書いたのである。だが僕が知らないだけで、実はこの投稿の頃には「春に跳ぶ」は書かれていた。これこそが「汝、星のごとく」では明かされていなかった北原先生の過去の空白を埋める物語だったのである。作者は「汝、」の執筆中に既にこのプロットを用意していたのだろうか。
「汝、」で毒親やヤングケアラーと言ったトピックを効果的に使っていたように、ここでは奨学金制度の問題が取り上げられている。細い針穴を通すように、こうしかならないというギリギリのところを攻める感じで物語が進行する。今回は草介という名も明かされ、年齢も明らかになる。かなり無理をしていると思える部分も多い。一番大きな問題点は、やはり結の養育だろう。奨学金を完済でき、実家を売っていくらかの資金があるからとはいえ、現在求職中の男性が男手一つで乳児を育てられるとは思えない。だが結果は「汝、」で既に示されている。そしてそれを成し遂げた人だから、ますますこの人物の魅力が増すのも事実だ。
それでも、と僕は思う。この物語は本当に書かれる必要があったのだろうか。もちろん、「汝、」を愛読した人なら彼についてもっと知りたいと思うことは当然だし、だからこそ事実、小説的にも商業的にも成功しているのだろう。実際ネットなどでの評判も良い。それでも僕には、これを書くことによって「汝、星のごとく」という小説の「純度」が下がってしまうように思えてならないのだ。
後日譚の「海を渡る」では、北原先生の七十二歳、暁海の五十八歳までが描かれている。ここでは多くのことが読者の望むように収束してゆく。例えば暁海は「オートクチュール刺繍の国内第一人者」になっているし、櫂の処女作にして遺作である小説「汝、星のごとく」は版を重ね、漫画作品も復刊され、彼が遺したプロットに従って続編も作られている。「毒親」だった暁海の母親はグループホームを出て自立し、新しいパートナーと温泉旅行を楽しんでいるし、父はカフェの料理人になっていて、暁海との仲も良好である。櫂の母親は相変わらずのようだが、結局櫂だけがすべての不幸を背負い込んだようだ。
影の部分は暁海の父の愛人・瞳子の死と、結の離婚、後は「星を編む」の中で描かれている櫂の編集者・絵理の離婚の話題くらいだ。瞳子の死は八十歳を過ぎての突然の交通事故という、ある意味瞳子らしい最期だった。結も絵理もめげずに立ち直り、結は実業家として成功を収めている。こういった結末は「汝、」からのファンにとっては嬉しい限りだろうが、ちょっと都合が良すぎるのではないかと思ってしまう。
北原先生五十七歳、暁海四十三歳の時点で二人は初めて肉体的にも結ばれる。北原先生言うところの「互助会」結婚、僕が以前の投稿で「恋愛感情も性愛もない繋がりという意味では、『流浪の月』の更紗と文の関係と似ているともいえる」と書いた特殊な関係から、普通の意味の夫婦関係になったわけだ。北原先生は、結の母の菜々とも一切男女関係がなかったわけで、閉鎖的な島で暮らしていたことを考えれば暁海以外の相手がいたとも思えない。作中では「違和感はまるでなく、自然過ぎることに戸惑ったほどだった」と書かれているが、そんなにうまくいくものだろうか。それとは対照的に娘の結の離婚原因は「レス」であり、元夫のノアが「セックスレスはパートナーへの虐待だ」と訴えるというもう一つの現実も描かれている。
それにしても、この一連の作品世界における時間の流れ方は外とは少し違うようだ。「汝、星のごとく」のプロローグとエピローグは暁海三十二歳の翌年のことである。これを仮にこの作品が発表された2022年のことだとすると、暁海と櫂の十七歳は2006年頃のことになる。その年に結が五歳だとあるから、「春に翔ぶ」の現在は、2000年から2001年頃に遡る筈だ。だがここに描かれた世相はそれよりはだいぶ後の感じだ。決定的なのは北原草介がスマートフォンを使っていることだ。iPhoneの登場は2007年のことであり、普及には数年を要した。そこで仮に「春に」の現在を2010年頃にすると、「汝、」のエピローグは2031年頃になる。そしてこれは櫂の編集者たちの奮闘を描いた「星を編む」の現在でもあるのだ。その頃の出版事情は今とはだいぶ変わっているのではないだろうか。紙の本の需要は減っていそうだ。そしてこの年立てだと暁海五十八歳の「海を渡る」のラストは、何と2056年頃になってしまうのである。僕にとっては想像することすら難しい未来なのだが、この小説ではあまり今と変わっていないように見える。あくまでも登場人物たちの未来を現在の読者に追体験しやすくするためなのであろう。その意味でこの作品もまぎれもない「キャラクター小説」と言えるだろう。
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