復興か移住か

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5月27日

 元日の能登半島地震の一週間後に、米山隆一衆議院議員(立憲民主党)が、「非常に言いづらいことですが、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択することを組織的に行うべきだ。現在の日本の人口動態で、その全てを旧に復することはできません」とツイートし、話題になったという。
 僕は以前から、限界集落や過疎地は廃村にして自然に戻すべきだという考えを持っていた。以前の投稿でも「『ぽつんと一軒家』というTV番組があり、なかなか面白いのだが、人里離れた所で暮らすのは実はエコではない。エネルギー効率を考えたら集まって暮らす方が断然いいのだ。人が住まなくなった集落は廃村にして、野生動物に返してあげる。そうすれば市街地に熊やイノシシが出没することも減るだろう。都市部の空き家や所有者不明の土地を利用できるような法整備をして、限界集落や災害危険地域に住む人びとに移住してもらうべきだ。だが、それを進めるのは、今のような地域代表による利益誘導型政治では難しい。国会議員は特定地域の利益代表であってはならないのだ。選挙制度の大改革が必要だろう」と書いている(21年8月14日付)。
 これが極論であることはわかっている。今年の3月には、3月7日の朝日新聞「福島季評」に安東量子が書いていた「どこかに住むには理由が存在するという発想自体が(中略)近代的かつ都市型のものであることは意識されてよいだろう」「ここに住むのに理由なんてない。昔から住んでいたから住んでいるだけだ。ここは、私という人間の一部なのだ」という意見を読んで、改めて問題の難しさに考え込んでしまった(本年3月12日投稿)。
 だが、安東は冷静に「そこは必ずしもすべての人にとって、うるわしの故地ではない。誰もが仲良く暮らしていた素晴らしい村だった、と、ある人が語った同じ集落について、別の人は言う。母子世帯だった子供の頃、母子ともどもみんなにいじめられて住んでいられなくなって、町に逃げたんだ。それもこれも含めて、人の営みだ」とも書いていた。
 世の中には、生まれ育った地に強いこだわりを持つ人と、全くそれがない人がいる。僕は後者の典型であるが、今回の米山投稿について非常識だとか傲慢だとか批判した人々は多く前者なのではないか。こう言うと、問題の矮小化と言われてしまうかも知れないが、究極的にはそこに行きつく。
 例えば批判意見のなかで所謂「左派」の人たちは「『選択と集中』を掲げて、医療と教育の統廃合を通じて過疎化を進めようとする『ネオコン(新自由主義)』の発想だ」と批判する。的外れとは思わないが、正直今さら感がある。
 「右派」からは、「当事者をほったらかしにした頭でっかちの『左派』の考えだ」というような批判もあった。僕は米山氏が左派だとは思わないが、立憲民主党を左派と思う人たちの左派批判の材料にされた感がある。結局、今回の米山投稿に対しての賛否は、左派か右派かとは関係ない(日本の「保守」政治は地縁を抜きにしては成立しない筈だが)のだ。
 このタイミングで言うか? という声も多いが、平時では全く注目されなかっただろう。長い議論が必要な課題だけに、問題提起には意味があると思う。勿論、過疎地だけでなく、過密地域(特に木造住宅の密集地や、洪水被害が予想される地域)からの移住も進めなければならない。「平時からの」冷静で時間をかけた議論が必要だと思う。

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