家父長制の呪縛

食、趣味、その他

3月31日

 3月30日の朝日新聞・論壇時評は「『子育て罰』の国 家族観の縛り まず解かねば」と題する、林香里による最終回だった。「子育て罰」とは初めて聞いた言葉だが、「子育てをすると親子とも制裁を受けるかのような苦しさを味わうこと」であり、「それが日本において顕著」だというのだ。
 家族主義を前提とした奨学金制度についても触れられていたが、いま日本の大学生で何らかの奨学金を受けているのは5割に上るともいう。昔はscholarshipの原義通り、ごく優秀でかつ品行も優れた学生だけが特別に受けられるような制度だったので当然僕などは受けられなかった。今の奨学金はただの学生ローンで、その返還が若い人たちを苦しめている。
 だが、少子化の原因は経済的な問題だけではないと林は指摘する。経済的に不自由していない若者も結婚を先送りしている。日本人の多くが「稼ぎ手の男性と妻、少なくとも子供1人といった家族のあるべき姿や男女の社会的役割規範に縛られている」実態があり、こういう伝統的な家族観が若者に家族を持つことをためらわせ、少子化を助長しているのだというのである。そしてこの国の政府、とりわけ自民党の保守派は、子育てや教育を伝統的役割として女性に押し付ける「家父長的」なものの見方をいまだに捨てていないのだ。
 先ごろ亡くなった大江健三郎の「静かな生活」をこのブログで取り上げた際、大江が自らをモデルとしたKが、「家(父)長たらんとして無残に失敗する」姿を描いていることに触れた。もちろん、大江は戯画としてそれを書いているのだが、大江自身が(大江ですら、と言ってもいいかもしれない)家父長制の呪縛から逃れられていないことを強く意識していたのではないかと思う。
 先日、妻と家電量販店に行ったのだが、応対した若い店員はずっと僕を「御主人」、妻を「奥様」と呼び続けた。若い頃なら「僕は主人じゃない」といったかもしれないが、黙っていた。ちなみに僕は住民票では世帯主だが、戸籍では妻が筆頭者である。芸能マスコミなどではいまだに「入籍」などと書いているのを目にするが、婚姻は新しい戸籍を作ることなので、どちらかの籍に入るわけではない。本籍地は実在する住所ならどこでもいいので、僕たちの場合はお互いの元の本籍とは無関係の(語呂が良くて覚えやすい)地名を本籍地にしている。
 TVを見ていると、レポーターが中高年の男性に「お父さん」と呼び掛けているのをよく目にする。この呼称は、中高年なら当然妻子がいて、家では「お父さん」と呼ばれているだろうという推測を前提としていると考えられる。僕が街を歩いていて、見知らぬ人から「お父さん」と呼びかけられたらどう反応するだろうか。「僕はあなたの父親じゃないよ」、「あなたにお父さんなどと呼ばれる筋合いはない」等と言いそうだ。だが、見ているとほとんどの「お父さん」がにこやかに応対している。一度だけひどくとまどった様子の人を見たことがあるが、この人は大学の教員だった。
 「論壇時評」に戻って、林は最後に「日本では、今回も述べたような『女らしく』『子供らしく』といった伝統的な性別や世代の役割期待へのこだわりも圧力も強い。論壇もその例外ではなく、圧倒的に多い男性筆者の論考の山を前に、時評の執筆にも暗黙の制約が課せられていると感じること一再ならずあった」と書いていた。ため息が出た。もう何十年、似たような指摘を何度も何度も読んできた。本当にこの国は変わらない。政府は「異次元の少子化対策」をすると言っているが、家族のあり方の多様性を認めない限り、うまくはいかないだろう。いまだに選択的夫婦別姓制度すら認めようとしないこの国では。

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