2月17日
畏友Kに勧められて「文学者とは何か」(中央公論新社刊)という本を読んだ。安部公房・三島由紀夫・大江健三郎の三者による、鼎談・対談を五本集成した本である。正直言って、安部と三島という、政治的な立ち位置も文学へのアプローチも対照的な二人(大江はまあ、どちらかといえば安部に近いか)が親しく語り合うというのがあまり想像できなかったので、読んでみて驚いた。
そもそも成功した作家が自分の創作の秘密などを簡単に明かす筈もなく、僕はこの種のものを読むときにはあまり期待しないようにしている。これらの対談でも、もちろんそんなことは語られていないが、彼等の人物像が生き生きと浮かびがって来るという意味ではまあ、読んでよかったと思う。
安部は昨年生誕百年、三島は今年が生誕百年である。大江は三島の十歳下だ。最初に置かれた「文学者とは」と題された鼎談は1958年のものだから、大江はまだデビュー二年目で大学生だった。当然緊張しているのだが、そう簡単に手の内を見せてたまるかという韜晦の感じも見て取れる。面白かったのはファシズム論のくだり。大江が三島の書くものには「ファシストな感じ」があると言い、三島が笑って「ほんとはファシストなんだよ」と言うと安部が「そんなことはない。それはウソだよ」という。口調までは書かれてはいないが、怒気を含んでいるように感じられる。その後また大江が「三島さんの流れにある人たちがいて(中略)そういう人たちはみなファシズムの若い兵士みたいな色彩を帯びていますよ」、三島「ああそうか、それは嬉しいことです」、安部「いやいや、そういうのはまずいよ」という流れがあり、安部が「美学的ファシズム論」は「困る。それ自体困るんだよ」と言って終わる。
58年といえば三島が「憂国」を書く二年前だが、もう既にこういう評価があったのかと思った。それを面白がる大江と真面目に叱る安部。全部の対談を読んでも安部の生真面目さは際立っている。その安部が「思想は気に入らなかったけど、人格は好きだったな」と回顧する三島は終始フランクでおおらかだ。先輩作家を前に身構えているところもあるのだろうが、大江が一番屈折している感じがする。実際もそうだったのだろうと思えるのだ。
個人的に興味を持ったのは性の問題について三人が語ったくだりだ。以前この欄で、「文学と性」として、どうして多くの文学作品に性描写があるのか、それらは文学に必要なのかを考えた(当然結論などでないが)ことがあったからだ。
三島との対談で大江は「セックスについては、意識を持った人間が夢中になって動物的であると同時に、それが終わるとたちまち批評的に再構成することができる珍しい人間行動」だと言う。それに対して三島がセックスは論理的なもので「それだけで一種の芸術である」から「それをもう一度芸術に引き戻すためにはその間に観察と言う触媒が要る」と応じるあたりは、この二人の話が(珍しく)かみ合っている。
安部と三島の対談ではいきなり三島が「性の問題だね。結局、二十世紀の文学は」と言い出す。十九世紀と二十世紀の間にフロイドがいるということがとても大きいと。それに対して安部は、戸惑いながらも三島の「サド侯爵夫人」を例に引いて「あの芝居の特徴は、やはりセックスが人間の行動、全行動としてとらえられていること」であり、「すくなくも行動のアンチ・テーゼではない。性と行動を、違った次元のものと考えて、その函数関係の方程式をもてあそんでいるようなものじゃない」と述べる。フロイドの精神分析は「性と行動の関係の解釈」であるので、それとは根本的に違うというのだ。
小説が「全人的」な芸術であろうとすれば、性の問題は避けて通れないということだろうか。もちろん、アセクシュアルな人間もいるから、普遍的とまでは言い切れないが。
コメント