ミステリーというパラレルワールド② ~「叙述トリック」への怨嗟

詩、ことば、文学

6月29日

 「『大どんでん返し』『驚愕のラスト』などと惹句に書かれているような小説の多くは、同じトリックを使いまわしている。それが『叙述トリック』である。この『叙述トリック』については言いたいことがありすぎるほどなので、稿を改めることにする」と、6月15日の投稿の最後に書いた。が、いざこの問題について書こうとすると、どこからどう書いていいかわからない。ミステリー小説について論じようというからにはある程度のネタバレは仕方ないと思うのだが、「叙述トリック」の場合は、作品名を挙げただけで致命的なネタバレになってしまいかねないからだ。
 ミステリーから離れるが、「坊っちゃん」という小説は、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と始まり、しばらく後になって主語の「おれ」が出てくる。この「おれ」は作者の夏目漱石自身ではなく、あくまで架空の人物である。それが小説のお約束であるが、日本では作者自身の体験や心境を第一人称で綴った「私小説」なるものが大流行した時期もあった。もちろん、「彼」「彼女」と言った第三人称の人物が主人公である小説も多く、その方が小説らしく感じられるという方も多いのではないだろうか。珍しいところでは倉橋由美子の「暗い旅」のように、第二人称の「あなた」を主人公にした小説もある。この作品はフランスの作家ミシェル・ビュトールの模倣に過ぎない等と激しいバッシングを受けたが、模倣で何が悪いのだろうか。ほとんど男性であった当時の批評家たちによる「マンスプレイニング」だったのではないかと思われる…脱線した。言いたいことは、小説の「語り」の方法として、「私」「おれ」「自分」など一人称を使ったものと、一人称は用いず、主人公を含む登場人物がすべて「彼」「彼女」「山椒魚」など三人称のものがあるということ。
 探偵小説の創始とされるポオの「モルグ街の殺人」は一人称で書かれている。名前が明かされない「私」が、友人であるオーギュスト・デュパンの探偵譚を語るという体裁になっているのである。このパターンは欧米のミステリーに多く、例えばヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスものなども、ヴァンスと常に行動を共にする「私」の視点から描かれる。もちろん三人称で書かれた作品もたくさんある。三人称の小説では、離れた場所にいる登場人物も描写するし、時にはその内面まで描かれる。いわゆる「神の視点」である。だが、作者が「神の視点」を持っているなら、犯罪現場を客観的に描写すれば、犯人など最初からわかるし、「謎」などなくなってしまうではないか…。ミステリーに手記の体裁をとるものが多いのは、そういう違和感を生じさせないためということもあるのかもしれない。
 さて、僕ぐらいの世代だと、「…と、日記には書いておこう」という昔の龍角散のTVCMを覚えていると思うが、日記や手記にはそもそも嘘や誇張が混じることがある。推理小説の場合、あからさまな嘘やミスリードはアンフェアだが、「個人の手記なので、自明のことなどはあえて書かなかった」として、重要な情報を伏せてしまうことはありうる。このように一人称の手記を使い、読者を錯覚させるのが「叙述トリック」の要諦で、アガサ・クリスティーが有名な「ロジャー・アクロイド殺し」で大成したとされる(この作品を未読で、かつ予備知識なしに読みたい方は、次の段落は飛ばして、その下の段落から読んでください)。

 それまでにも、いかにも善人然とした人物や、探偵や刑事が実は犯人だったという作品はたくさんあったが、この作品ではポワロの助手役を務めた手記の記述者=「わたし」が犯人なのである。手記の中には「嘘」は書かれていないが、決定的な殺人場面はぼかされている。語り手が犯人であるということについて、発表当時から賛否両論あったが、今ではトリックの一つとして認められていると言っていいだろう。クリスティー自身は「生涯で一度しか使えないトリック」と言っていたようだが。

 ところが、現代日本の本格ミステリー界では、この叙述トリックが今まさに花盛りなのである。騙し方のヴァリエーションも豊富で、人物の属性を誤認させるもの、時代や場所を誤認させるものなどもある。ある登場人物が男性(または女性)と思わせて実は女性(または男性)である例。若者と思わせて実は老人だった(「高校生」が、実は定年退職後に定時制高校に入りなおした人だった等)例。現代の話と思わせて数十年前のことだった例。登場人物が全員日本名で、明らかに日本語で話しているが、実は舞台は外国(それも南半球)だった例など。
 僕がこれはひどいと思ったのは、一人称で書かれた人物が実は途中で亡くなっていて、別人と入れ替わっていたというもの。これだけでもかなりアンフェアなのだが、最初の一人称の人物の亡くなる直前までの記述があるのだ。この部分は一体誰が書いたのか。冥界から送ってきたとでもいうのだろうか。もう一つは人事不省に陥った人物が見ている夢(?)の中の物語に叙述トリックが使われていた例。もう、ここまでやるかという感じだが、こうなると誰が誰を騙そうとしているのかよくわからない。叙述トリックは、「記述する」行為に伴うトリックなので、あくまで手記など「書かれたもの」であるというのが大前提であるべきだと思う。
 叙述トリックを認めないというつもりはないが、あまりに多いと食傷する。どこにトリックが潜んでいるか探しながら読むのは面白くないし、騙されたと気づいた時の清々しさがない。やはりこのトリックは、作家のキャリアの中で一回程度にしてもらいたいものである。

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