1月16日
書店で、横溝正史の「吸血蛾」を見つけて買った。没後40年記念として角川文庫から復刊されたものだ。巻末の編集部の注意書きが目を引く。そのまま引用すると、「なお本文中には、変性男子、びっこ、浮浪者、薄野呂、狂気、気が狂う、気ちがい、盲人、めくら、色気ちがい、狂人、白痴といった、今日の人権擁護の見地に照らして使うべきではない語句や、医療知識の観点から不適切と思われる表現があります」。何もここまで列挙しなくてもと思うのだが、差別語についてはいずれ私見を書いてみたいと思っている。が、今回のテーマは横溝正史の「エログロ小説」である。この作品と、これに先立って書かれた「幽霊男」、この後に書かれた「悪魔の寵児」の三長編を、「横溝正史のエログロ三部作」と僕は勝手に命名しているのだ。
以前「悪魔の手毬唄」について書いた時に、横溝の代表作が、戦後すぐから1950年頃に集中していると書いた。実は50年代以降は本格推理小説の冬の時代なのだ。さらに50年代終わり頃になると、松本清張らによる「社会派推理小説」が一大ブームを巻き起こす。本格推理小説は「リアリティがない」「人物が描けていない」等とバッシングを受けるようになった。そんな中、例えば「刺青殺人事件」の高木彬光などは、少しずつ社会派にスライドしていく。法廷ミステリーの傑作とされる「破戒裁判」を書き、その後は「捜査検事シリーズ」など社会派的な作品も多く書いている。一方、社会派に転向することを潔しとしなかったのが横溝であった。
本格推理小説の冬の時代、彼は通俗味や娯楽性の強い作品を書き続けた。それがやがて「エログロ作品」につながっていった、というのが一応の説明だ。だが、それだけではなく、やはり横溝自身の志向(嗜好)もあるのだろう。何しろ戦前には江戸川乱歩の編集者だった、いや、単なる作家と編集者というよりは、共同制作者に近かったとも言われている。
この「三部作」は、乱歩の「蜘蛛男」等に近いテイストを持っている。「幽霊男」ではその名の通り幽霊男、「吸血蛾」では狼男、「悪魔の寵児」では雨男と呼ばれる連続殺人鬼が登場する。幽霊男が広告塔から放送で殺人予告を告知するとか、吸血蛾では切断した女性の片足をアドバルーンに付けて飛ばし、もう片足はストリップ小屋のラインダンスに紛れて操られるとか、「悪魔の寵児」では陰惨な犯罪場面を再現した蝋人形館が登場するなど、いずれも江戸川乱歩の世界を彷彿させるものだ。また、三作品ともに、生き人形、マヌカン、蝋人形といった「人形」が重要な役割を与えられている。
そしてエログロの度合いは乱歩以上である。「幽霊男」は発表当時映画化されているが、未見なので、どこまで原作に忠実に作られたのかはわからない。原作では総勢5人のヌード・モデルが、次々に殺害され全裸で陳列されるというのだから、映像化のハードルは高そうだ。「吸血蛾」は、美人デザイナー専属の服飾モデルがやはり次々と殺害されていくというもの。怪奇映画の巨匠中川信夫監督、池辺良の金田一耕助で映画化されている。池辺良の金田一は僕が見た中では最もダンディであった。さすが中川信夫だけあって、原作通りとはいかないものの、雰囲気は出ていた。77年に愛川欽也主演でドラマ化されているが、これは全く「別物」であった。最後の「悪魔の寵児」は、これまで一切映像化されていない。グロテスクさは前二作以上であり、そのまま映像化することは難しいだろう。
これらの作品は、発表当時から「大横溝の名を汚す」などと一部で酷評されていた。だが、今回読み返して思ったのは、どの作品も推理小説としての骨格部分は存外しっかりしているということだ。その点は明らかに乱歩とは異なる。乱歩の場合は構想がまとまっていなくても書き始めることがあったらしいが、横溝はトリックから構築するタイプの作家だ。だからエログロを書きながらも冷めた目が透徹しているのだ。恐ろしいようなニヒリズムである。もちろん、どなたにもお勧めできるようなものではないが、横溝正史の凄みを感じさせる作品群ではある。
コメント