「新しい戦前」

歴史、古文書

1月24日

 タモリが、今年は「新しい戦前になる」と言った。僕は見ていないが、報道によれば昨年末の「徹子の部屋」で、来年はどんな年になるかという問いにそう答えたのだという。司会の黒柳徹子はそれ以上質問せず、タモリもそれ以上は何も言わなかったとのことで、真意のほどは分からない。彼はもともと政治的な発言をほとんどしない人だ。だから余計に話題になったのだろう。
 僕はこの国の保守政治家とは、戦前の権力・価値体系を復活させ、温存することを目的にしている人たちだと思っている。戦前の権力・価値体系とは、とりもなおさず明治新政府に由来する権力であり、それが第二次世界大戦の敗戦により「一敗地に塗れた」のであった。だから歴代の保守政権の指導者は、表向きはそれを隠してきた。「戦後レジームからの脱却」をうたって登場した安倍前首相は、ある意味初めて堂々と戦前回帰志向を表明した人だったと言えるのではないかと思う。
 僕は以前この欄で「『士農工商』は、制度ではなくイデオロギー」(2021・12・28)と書いた。実体のない「士農工商」が学校教育に取り入れられたのは、明治維新を称揚・美化するために、明治新政府の「四民平等」に対立する古い身分概念として強調したからである。「四民平等」も結局はただ士族の特典を奪ったに過ぎず、つまり明治新政府は職能集団としての武士階級を解体することで、「国民皆兵」を実現し、軍事立国を図ったのだ。ドラマや小説では若く理想に燃えた「志士」たちが明治「維新」を実現するが、実際のところそれはただの「権力の移動」でしかない。そして彼らが作った「新」政府は、後に破滅的な戦争の泥沼にはまっていく、まさに同じ政府なのである。いわゆる「志士」たちの中で圧倒的な人気を誇る坂本龍馬は、戦前は少なくとも今ほどには有名ではなかった。彼を有名にしたのは司馬遼太郎だ。彼が選ばれたのは、手垢のついていない清新なキャラクターということもあるが、彼が(志半ばで暗殺されたため)明治新政権と直接にはつながらない人物だったということが大きいのではないかと僕は思っている。
 話をタモリに戻せば、彼は1945年の敗戦直後の生まれである。その彼が「新しい戦前」と言うのは、やはり何かそういう空気感を敏感に感じ取っているということなのだろう。
 戦後間もない頃の日本人は、国が個人を守ってくれることはないということを、身をもって知っていたはずだ。また、戦後28年も経った1973年にNHKが初めて行った天皇についての国民意識調査では、一位は「無関心」だった。
 僕は中学校や高校で、「権威を疑え」と教わってきたし、自分が教員になってもそう言ってきたつもりだ。だが今はその教育現場も変わってしまった。一言で言うなら、上意下達の官僚機構に取り込まれてしまっているのが、現在の(公立)学校だ。
 一方、バブル崩壊後、2000年代に入った頃から、若者の地縁共同体や血縁共同体への「再埋め込み」が起こり、今や年寄りよりも「信心深いのは若者たち」という状況を呈しているという(土井隆義による)。自分が搾取され、人権を侵害されているのに「人権擁護派」を毛嫌いする若者が多いというような話もよく聞く。
 さて、今日の朝日朝刊に「新たなる政治の空騒ぎ」という憲法学者蟻川恒正の寄稿が載っていた。その最後の部分を引用する。
「政治権力の掌握を志向する旧統一教会と日本政界、とりわけ自民党・現最大派閥(安倍派)との関係を自己点検しようとする政治の動きは、すっかり沙汰やみになったかに見える。『敵基地攻撃能力』の保有の必要性を力強く語ったこの国の首相は、『戦争放棄』を定める憲法9条との関係には言及することがない一方、『継戦能力』という言葉を当然のように使った。/空騒ぎの神輿(みこし)に担がれ続けた元首相が横死してもなお、この国の政治は、けじめをつけるどころか、新たな亡国の遊戯を始めようとしているかのごとくである。/この悲劇からすら学びえないとしたら、この国には、一体どれだけの悲劇が必要だというのか」
 本来微温的な憲法学者に、このような激烈な文章を書かせる程度には、「今」は危機的な状況であるらしい。

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