奇想と妄想 ポオの世界②

詩、ことば、文学

奇想の蒐集家

3月25日

 「100分de名著」の冒頭で、伊集院氏が「ポーと言えば、推理小説だと思っていた」という趣旨のことを語っていた。次回のテーマが「モルグ街の殺人」なのでそこで話題になるかもしれないが、ポオが遺した推理小説は短編5編とされている(僕の個人的な意見ではそのうち真に推理小説と呼べるのは「モルグ街…」のみだが)。5編の内訳はこうだ。「モルグ街…」の探偵デュパンが登場するのがあと二つ。一つは有名な「盗まれた手紙」。読んだ方ならわかるだろうが、事件と言うほどのものもなく、犯人当ての要素もない。もう一つ「マリー=ロジェの謎」は、実際に起こった迷宮入り事件を題材にしたもので、当時の読者には受けたかもしれないが、すっきりとした解決には至っていない。残り二つのうち一つは、これも有名な「黄金虫」で、宝探しの物語。暗号解読ものの元祖であるが、純粋な推理小説とは言いにくい。最後が「お前が犯人だ(Thou Art the Man)」で、これはどちらかと言うとパロディ小説だ。面白いのはこの五作がすべてタイプの違う作品であること。さらにそれ以外の作品も、SF、ホラー、ゴシックロマン、冒険小説にコメディーと実に多種多様なのである。
 前回も述べたように、ポオは才能ある編集者という顔も持っていたので、読者受けする新奇なネタを常に求めていた。そして、異常な設定であればあるほど彼の独擅場だったのだ。まさに「奇想の蒐集家」である。

ホラー小説の元祖

 中でも彼が得意としたのが、薄気味の悪い、怪奇な物語なのであって、「黒猫」はホラー小説の元祖とされている。だがこの怖さは、いま日本で流行っている「怖い話」とは、幾分趣が違う。TVの「ほんこわ」等でやっているのはほとんど幽霊話だが、「黒猫」はそうではない。男が黒猫プルートを殺した夜に家が火事で焼け落ち、白い壁に猫の姿が浮かび上がるとか、二匹目の猫の模様が絞首台に見えるという怪奇現象は確かに不気味だが、前者は猫の死骸の成分が壁に染み出たと(一応)説明できるし、後者は男の恐怖心が見せた幻影であろう。苦労して妻の死骸を塗りこめた漆喰の壁をわざわざステッキで叩いてしまうのは、決して良心の呵責からではなく一種の「天邪鬼」から来ているのだが、そういう、暗示に怯えながらなぜか破滅に向かってしまう男の心理がこの話の恐ろしさの正体なのだ。「ウィリアム・ウィルソン」にもそれは共通するが、こちらの奇想はドッペルゲンガーである。
 ではポオは亡霊を書かなかったのかと言えば、そうではない。むしろ亡霊が登場する話の方が彼の妄想を反映しているのだ。「アッシャー家の崩壊」には彼に親しい、「夭折した美女の亡霊が生涯つきまとう」と、「仮死状態で埋葬されてしまう早すぎた埋葬」の二つが盛り込まれている。
 僕は今ここで、「奇想」と「妄想」を使い分けているが、これは必ずしも辞書的な使い分けではない。ポオが読者の関心を惹くべく、ありえないような設定を選択したのが「奇想」、一方でポオ自身の「妄執」になってしまっているような奇想を「妄想」と呼んでいるだけだ。

妄想のリテラシー

 番組ではポオが、まだ映画のない時代に映画的な効果を考えていたというようなことが話されていたが、それはどうだろう。「アッシャー家…」が映画的だとは僕は思わない。アッシャー家の屋敷が沼に呑まれる場面など、今日のCG技術を使えば実写以上にリアルに作れるだろう。だが、それで映画になるだろうか。
 ほぼ同じ時代、日本では鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が当たり狂言になっていた。筋もさることながら趣向を凝らした「ケレン」が成功の秘訣だったと言われている。
 江戸川乱歩は子供の頃から、見世物やからくり人形、押し絵や幻燈が大好きで、かつ怖かったという。映画監督の実相寺昭雄は最後までCGを使わず、ミニチュアを使った特撮にこだわった。
 いかがわしく、偽物らしいから怖い。この感覚が失われて久しい。
 コンピュータグラフィックスやヴァーチャルリアリテイーが奇想や妄想の意味を変えてしまっているのではないか。陰謀論がはびこり、「ディープフェイク」すら出現してしまった時代、奇想や妄想を楽しむのも難しくなってしまった。妄想にもリテラシーが必要な時代になってしまったのである。それを知ったらポオは嘆くのではないだろうか。

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