死刑存廃論争

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7月8日

 昨日の朝日新聞GLOBEに、「EU各国は死刑を廃止、日本と埋まらぬ溝」と題する意見記事が載っていた。ストレートな書きぶりに驚いた。筆者のサンドラ・ヘフェリンは日独混血のコラムニストだ。日本人の記者なら炎上を恐れてこんなに直裁には書けないだろうと思った
 「死刑廃止」も「夫婦別姓」同様、古くから議論されながら日本では一向に実現しない事案である。世界では死刑を存置している国の方が圧倒的に少数なのだが、日本では廃止の機運が盛り上がらない。国会の死刑廃止議連は、かつては百人を超えていたが、今はわずか三十人程度だという。廃止国では「死刑」に犯罪の抑止効果がほとんど期待できないこと等が冷静かつ合理的に議論されて来た。日本で「死刑」の存廃を論じると、なぜか感情論になってしまう。
 記事によれば、内閣府の調査で、死刑制度を「やむを得ない」と考える人が八割を超え、「廃止すべき」は、わずか9%だそうだ。昔読んだ四コマ漫画の「フジ三太郎」で、三太郎が最初は笑顔で死刑反対論者の署名活動に応じていたが、三コマ目で残虐な殺人事件が報じられると、最後のコマでは目を伏せて拒否する、というのがあった。この問題に対する日本人のメンタリティーをよく表していると言えるかもしれない。
 記事は、「日本では凶悪事件の被害者の『遺族』の心情を考慮して『死刑はやむを得ない』と考える人が少なくない」とした上で、「殺人事件の被害者となった人が独身で、子どもがなく、両親が既に死亡しており、きょうだいがいない場合」など、多様な生き方が増える時代に「遺族の気持ち」を判断基準に死刑の是非を判断すると矛盾を生じるのではないかと指摘していた。

 新本格ミステリーの旗手として知られる島田荘司は死刑廃止論者である。彼は刑罰の歴史にも詳しく、方々で発言しているが、彼の主張を煎じ詰めれば、「冤罪の可能性がわずかでもある限り、死刑制度は置くべきではない」というものだ。間違いで死刑を執行してしまったら取り返しがつかない。そして冤罪がなくなることはこの先もおそらくない。
 冤罪事案と言えば「袴田事件」の再審で、検察が改めて死刑を求刑するにあたって、被害者の孫の意見陳述(検察官が代読)を行ったという。意見では袴田の名前を挙げてはいないというが、検察が遺族の「処罰感情」を利用しようと企てたのは明らかだろう。
 僕は幸い、親しい人を犯罪で失ったことはないから、もしそうなった場合の自分の感情は予想できない。だが、仮に犯人が死刑になったとしても、それで苦しみが癒えることはないだろうとも思う。そして、被害者遺族の気持ちを基準に死刑か否かを判断するのはやはり間違いだろうと思う。

 それにしても、「殺人」の罪の重さに比して、詐欺や窃盗の量刑が軽すぎるように思う。それこそ、「被害者感情」がもっと反映されてよいのではないか。

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