「42年前の映画」再生プロジェクト

食、趣味、その他

6月23日

コロナ禍を、二重マスクをして電車に乗り、御徒町駅へ向かう。
実家の荷物整理をしていた際、押し入れの奥から古い8ミリフィルムを発見した。それは今を去る42年前、僕が高校三年生の時に自主制作した「映画」のフィルムだった。果たして中身は無事なのか、褪色や汚れはないか、映写機も既に壊れているので、確かめるすべはない。だが見てみたい。
 ネットで古い8ミリをデジタル化してくれる業者を探した。サイトから見積もりもできたが、直接持ち込むのが早いと思って持参することにしたのだ。ビルの四階にある店を探すのにやや手間取ったが、話はすぐ通じた。納期は二か月、フィルムのDVDダビングを依頼し、将来的に編集し直せるようにデータでも貰うことにした。費用はしめて8,357円とのこと。


 価格の感じ方は人それぞれだろうが、僕は圧倒的に安いと思った。この十倍でも払うだろう。なぜ今日まで忘れていたのかと思うほど、人生の中のある時期に熱中していたものを、蘇らせることができるかもしれないのだ。今から二か月後が待ち遠しくてならない。
「映画」と言うのは、高校三年の時、文化祭のために作ったもの、それもクラスでも部活でもなく、あくまで有志で。原作(文芸部の部誌に発表した短編小説)・脚本・監督を僕一人でこなし、夏休みから秋にかけてほぼこれだけに没頭していた。文化祭前には編集や録音のために何日も学校を休んだ。それで担任にこっぴどく怒られたのを覚えている。このエネルギーを受験勉強に注いでいたら、現役で東大くらい受かったんじゃないかと思うくらいだ(もちろん冗談です)。
そうして出来た「映画」だが、二回見てくれた奇特な友人の感想は、「よくわからなかった」というものだった。よくわからない映画になったのはもちろん僕の非才のせいだが、かりに僕に才能があったとしても、それだけでは映画は出来ないのだ、それがたとえ素人の作る短編映画でも。出演者を集めたり、撮影日程を組んで連絡したりという実務的な能力が僕には致命的に欠けていた。主役を務めてくれたKが僕に代わってすべて仕切ってくれ、それで何とか形になったのだった。Kは抜群の交渉能力を発揮して、例えば佐原市(現香取市)に撮影に行った際、いい感じの旧家に撮影許可を取り付けてくれたりした。一方僕はといえば、キャストを引き受けてくれた初対面の他校の女の子を前にあがってしまい、ろくな演技指導もできない有様。結果、森の中の撮影で十数箇所も蚊に刺されてしまった彼女は、怒って途中で帰ってしまった。彼女が出演するシーンはまだ残っていたのに。
結局すべての撮影を文化祭に間に合わせることが出来ず、苦し紛れにナレーションを入れてつないだものを発表したのだから、よくわからなくて当然だったのだ。だが、今回データ化した映像を再編集して、少しでも理想の形に近づけることが出来たら……。それを是非、Kに見てもらいたいと思ったのである。(この項続く)

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