7月14日
「自称詩人」などと言っている僕だが、自分が書いているものが「詩」であると言い切る自信はない。そもそも何が詩で、何が詩でないのかよくわからない。
優れた詩とは暗唱できるものだという人がいる。僕も昔読んだ詩のうち、中原中也あたりだと、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」だとか、「汚れっちまった悲しみに…」だとか時々口をついて出ることがあるが、だからそれが詩というものなのか、優れているのかと問われれば正直良くわからない。同じように、好きな「詩」ならたくさんある(これを書きながら今ふと思い出したのは谷川俊太郎の「かなしみ」という詩だ)が、それは本当に「詩」なのかと言われるとこれまたよくわからない。だから授業でも詩は苦手だった。
俳句や短歌ならそんなことはない。プロアマ問わず、これらを作る人が今もたくさんいて、新聞の俳壇・歌壇などは大にぎわいだ。この人たちは直接伝統と繋がっているのだ。
俳句とは何のことかと問われれば、それは「俳諧連歌の発句」の略である、と説明できる。連歌からの長い歴史を経て、その発句(最初の句)が独立して鑑賞されるようになったものだ。ただし俳句と呼ぶようになるのは近代になってから。だから「松尾芭蕉の俳句」というのは厳密に言えば間違いで、当時は単に発句といっていた筈である。
短歌も、近代以前には和歌と呼ばれていた。短歌はもともと和歌の中の一形式だが、長歌や旋頭歌といった他の形式が廃れてしまい、わざわざ「短歌」と断る必要がなかったのだ。近代になってから、いわば「先祖返り」して短歌と呼称するようになった。そこには、掛詞や縁語のような技巧が必須で、高踏的かつマンネリだった和歌を、「革新」するという意味もこめられていた。
ところで、その俳句や短歌に詩も含めた韻文全般を「詩歌(しいか)」とも呼ぶが、これは本来は「漢詩と和歌」のことであった。つまり、中国から伝来した「詩」に対し、最初から日本で生まれたものを「歌」と呼んで区別していたのである。明治の初めごろまでは単に「詩」といえば漢詩を指し、実際に当時の知識人はごく普通に漢詩を作っていた。西郷南洲(隆盛)も漢詩を書いているし、漱石や鴎外もたくさん漢詩を残している。
「文明開化」によって西欧の詩が紹介され、訳詩集などが出版されるようになると、はじめから日本語で、西欧風の詩を書いてみようとする人たちが現れる。当時そういう詩は、漢詩と区別するために「新体詩」と呼ばれていた。その後、漢詩を作る人がほとんどいなくなると、単に「詩」と呼ばれるようになったというわけだ。
最初に「新体詩」を始めた人たちのお手本は、訳詩だったわけだが、独語、仏語、英語などで書かれていた原詩には、共通する大きな特徴があった。それは「押韻」である。だが、それは日本語訳には反映されない。つまり訳詩には西欧の詩のエッセンスとも言うべきものが含まれていなかった。
もちろん、それまでの日本人が「韻」を知らなかったわけではなく、漢詩にも押韻や平仄という、音やリズムの約束事はあった。だが、それをそのまま日本語に移そうとしてもなかなか巧くはいかない。母音の数が少ない日本語では、韻の効果が出にくいということもあっただろう。
新体詩の作り手たちも、西欧の近代詩に匹敵するような「形式」を生み出すべく色々試みたようだが、日本語で定型を作ろうとすると、結局は七五調のような「復古調」になってしまう。そうこうするうち、萩原朔太郎に代表される「口語自由詩」に時代は移っていったのである。
現代では、欧米でも韻を踏まない詩は珍しくはないだろう。だがそれは定型押韻詩からの長い歴史の末に出来てきたものだ。それはちょうど、俳諧連歌からの長い長い歴史の果てに無季や自由律の俳句が出来てきたのと同じである。それに対して日本の「詩」は、西欧の詩のうわべだけを模倣したところからスタートして、今の自由詩に至った。だから、日本の「詩」がどこか頼りないのは、仕方のないことなのだ。
それでは日本で定型押韻詩を模索した人はいなかったのか? 実はいたのである。第二次大戦下に、あえて時流に逆らうように西欧風の定型詩を追い求めていた詩人たちがいて、彼らのグループを「マチネ・ポエティク」という。彼らについてはあらためてまた書いてみたいと思う。
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