小説の愉しみ

詩、ことば、文学

7月7日

 村上春樹のごく初期の短編に「納屋を焼く」という作品がある。こんな話だ(ネタバレ)。「僕」はひとまわり近く若い「彼女」と知り合いの結婚パーティーで会い、仲良くなった。具体的には書かれていないが、この「仲良く」にはもちろん性的な意味もあると思われる。「僕」は小説家で、妻がいる(小説には登場しない)が子どもはいない。三年前に三十一才だったとあるから作者とほぼ重なる。だが、もちろんこれは「私小説」などではない。後には大麻煙草を吸う場面もある。
 彼女はパントマイムの勉強をしながら、生活のためにモデルの仕事をしていたが、収入は微々たるもので、足りない部分はボーイフレンドの援助で賄われていたのではないかと僕は想像している。彼女は「蜜柑むき」のパントマイムを見せてくれ、感心する僕に、「そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ」という。彼女が北アフリカへの旅行から帰る際、僕が空港に迎えに行くと、彼女は新しい恋人と腕を組んでやって来た。ハンサムで身なりのいい男だった。10月の日曜日、僕が家に一人でいると、彼女が彼の運転するスポーツカーでやって来て、ちょっとしたパーティーのようになる。彼は持参した大麻をすすめ、彼女が眠ってしまった後で「時々納屋を焼くんです」と僕に告げる。大きな火事にならないような納屋を選んで時々放火をしている、次に焼く予定の納屋も決まっていてこの家の近くだ、今日はその下調べに来たという。僕は二万分の一の地図を買い、近所を歩いて候補になりそうな納屋を探し、コースを組んで毎朝走ったが二か月たっても納屋は焼けなかった。12月に彼を見かけて問いただすと、あの後すぐに納屋は焼いたという。そして別れ際に彼は、彼女と連絡が取れなくなっていると明かす。僕は気になって、彼女と連絡を試みたが電話は止められており、アパートも留守のようで、一か月後には別の住人の札がかかっていた。彼女は消えてしまった。
 こうして梗概にするとつまらないが、40年近く前に初めて読んだ時は結構衝撃を受けた。
 今、ネット検索すると短時間でこの小説の「解釈」をいくつも読むことが出来る。ある人はこの小説は「あなたには見えない世界がある」ということを表現していると説く。彼に言わせると、納屋は確かに焼けたが、検証不足で僕はそれに気づかなかっただけ。彼女も消えてしまったわけではないが、これまた検証不足から僕はそう信じ込んでしまったのだという。また別の人は、「納屋を焼く」とは恋人を奪うことのメタファーだと書いている。つまり彼が僕から彼女を奪うことを宣言したのが、「時々納屋を焼くんです」という言葉だということだ。どちらもそれなりに説得力はあると思うが、そんな読み方をして愉しいのだろうか。
 60年代の学生運動への思いが隠されていると指摘しているものもある。間違いではないだろう。しかし少なくとも小説に描かれた表面からそこまで読み取るのは無理だ。僕たちは発表された文章を愉しむことしかできないし、それが正しい読み方なのだと思う。
 昔、三島由紀夫の「小説とは何か」を授業でやったことがある。教科書には三島が「遠野物語」の第22章を読んで、「ここに小説があった」と「三嘆これ久しう」したという箇所が載っていた。通夜の席に亡くなった老女が生前と変わらぬ姿で現れたという話だが、この時その幽霊の裾が炭取にさわり、「丸き炭取なればくるくるとまはりたり」、つまり実体である炭取りが回転することで、幽霊の実在を証明してしまう。それを言葉だけでやるのが小説だと言っているのである。
 村上春樹という人は本来短編作家なのではないか、「小説」を見つけることにかけては天才的だが、長編にするのは実はあまりうまくないのではないか。こんなことを書くとハルキストから罵声が飛んできそうだが、彼の長編は大風呂敷を広げた挙句、どうにも畳みきれなくなると、主人公がセックスをすることでカタルシスのようなものを作り出して終わる、というパターンが多い気がする。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はうまく終わった方だが、それは作者自身も言っているように「両側から掘り進めてきた長いトンネルが、中央でぴたりと出会ってめでたく貫通」したからである。
 終わらせ方がもう一つという点では、恩田陸という人もそうだ。彼女の場合、導入部が抜群に巧く、次から次と不思議な暗合が現れ、気が付くと残り僅かな頁数ですべて解決するとは思えず、暗然とさせられる、というのが常だ。読んでいる間は無暗に面白いのだが、最後はモヤモヤしてしまう。それでまた次の作品も読まされてしまうのだから、ある意味いいカモになっているのだが。
 それにしても、「伏線回収」という言葉はいつごろからこんなに使われるようになったのだろう。最近では最後にすべてがつながるのがいい小説(やドラマ)という風に思われているような気さえする。だが、そのためには精緻なシノプシスを作って書かなくてはならない。設計図通りに作るのは「工芸品」であってもはや「芸術」ではないと思うのだが。

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