「光る君へ」と源氏トリビア

詩、ことば、文学

1月13日

 大河ドラマはもう何十年と見ていなかったが、紫式部の物語とあっては「自称・源氏読み」として見ないわけにゆかない。番宣番組や、源氏物語を特集した番組も含めて見てみることにした。
 てっきり劇中劇のような形で源氏物語を入れるのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。紫式部の生涯はほとんどわかっておらず、早世したのか長生きだったのすらわからない。彼女に関するエピソードのネタ元はほとんどが「紫式部日記」だが、この日記には、彼女が仕えた中宮彰子が、父藤原道長の自宅・土御門殿に宿下がりして一条天皇の皇子(後の後一条天皇)を出産する、寛弘五年(1008)の記事を中心に、わずか二年ほどのことしか書かれていないのだ。さて一体どんな物語になるのか。脚本家(大石静)の腕の見せ所ということか(この後ネタバレ)。
 いきなり安倍晴明(‐演 ユースケ・サンタマリア)が出てきてまず驚いた。平安時代の雰囲気はまあまあ出ていると思うが、紫式部の出自を「下級貴族」としていた点はやや引っかかった。紫式部の生家は、今の廬山寺のあたりで、ここには彼女の曽祖父である中納言兼輔(堤中納言)が建てた広壮な屋敷があり、一族はそこに住んでいた。道長の土御門殿とは東京極大路を挟んではす向かいに位置する。土御門殿はもともと道長の正妻である源倫子の家で、紫式部と倫子は幼友達だったろうと角田文衛(1913~2008)が言っている。紫式部の父、為時(‐演 岸谷五朗)は、母方では道長たち兄弟とまたいとこの関係になる。幼い頃には殿上童として内裏に上がったこともある。彼や息子の惟規(紫式部の兄弟)が務めた式部丞は位階では六位相当だが、蔵人を兼官すれば殿上人にもなれる。ドラマでは武骨な漢学者のイメージだったが、実際は和歌なども達者に詠んでいる。何が言いたいかというと、紫式部は下級どころか、中流の上くらいの由緒ある家柄の出身だということだ。劇中では「ちやは」と呼ばれる式部の母(‐演 国仲涼子)もれっきとした藤原氏の出身である。第一話の最後でちやはは藤原道兼に殺害されてしまうのだが、道兼は単なる通りすがりの庶民ではなく、一族に連なる貴族の女性を殺したことになるのだ。
 この道兼(‐演 玉置玲央)の造形はとても興味深い。道兼について残っているエピソードと言えば、父兼家の命により花山天皇を騙して出家させたことと、兄道隆の死後関白になったもののわずか11日で病死してしまったということぐらいしかないのだが、ドラマの中では兼家(‐演 段田安則)とともに、今後暗躍しそうである。そこに安倍晴明も絡んできそうだが、非常に人気があるキャラクターだけに、描き方次第では反発を招くかもしれない。まあ、僕が心配することではないが。
 主人公のまひろが雀を飼っているのは、「若紫」巻のエピソードにちなむのだろう。少年時代の道長との出会いの描き方がいい。今さらながらだが、最近の子役は演技が上手いと思った。解せないのは道長の幼名が三郎となっていたこと。彼は五男で、「大鏡」にも「五郎」と書かれている。いくら史実に捉われないとはいっても、こういうところは大切にしてほしい。そしてやはり問題は道兼によるちやはの殺害である。当時の貴族にとって死は「汚れ」であり、血を見ることは絶対の禁忌だった。家来に殺させるならともかく、自ら剣をとって刺し殺し、顔に返り血を浴びるなど、決してあってはならないことなのだ。

 さてここからがトリビア。紫式部の名前をドラマでは「まひろ」としていた。本名はあくまでもわからないのだが、「藤原香子」だという有力な説がある。ただし、証明することは難しいだろう。
 一方源氏物語の世界では、女性に限らずほぼすべての登場人物の実名が書かれていない。実名がはっきりしているのは、男性では光源氏の従者の惟光と良清ぐらいである。女性では僕が読んだ限りでは「夕顔」の遺児の「玉鬘」の本名が「藤原瑠璃君」であると書かれているのが唯一だ。この「玉鬘」は、頭中将の娘なので、頭中将が藤原氏であったことが改めて確認できる。
 主人公の「光源氏」や「紫の上」にしても、ただのあだ名である。「光源氏」という通称は「帚木」巻の冒頭と、「若紫」巻の中の二回くらいしか出てこない。「紫の上」も僕の記憶では「若菜下」に一回出てくるだけだ。それでも、これらは少なくとも作中でそう呼ばれている事実はあるのだが、それ以外の登場人物の呼び名は、ほとんど後世の人々が便宜のために勝手につけたものなのである。逆に言えば紫式部は名前を付けなくても破綻なく書けていたわけで、それはそれですごいことだと思うが。
 これら登場人物の呼び名はその人が詠んだ歌の中の言葉や、その人が活躍する巻の名に由来している。一例をあげると光源氏の長男は夕霧と呼ばれるが、その名は第39巻の「夕霧」から来ている。彼が誕生した「葵」は第9巻なので、その時点で彼を夕霧と呼ぶのは実はおかしいのだが、あくまで便宜のためにそう呼んでいるのである。中にはこういう雅な呼び名を付けてもらえなかった不幸な登場人物もいて、その代表は光源氏の終生のライバルだった「頭中将」である。頭中将とはただの役職名で、彼自身は最終的には太政大臣まで上り詰めるのだが、最も印象的な出番の時に「頭中将」であったのでずっとそう呼ばれるのである。今の感覚で言えば、課長だった時期が長いので、専務になっても社長になっても「課長」と呼ばれているようなものだ。まあ、これもまた作者の与り知らぬことではあるが。

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