「帝銀事件と日本の秘密戦」

歴史、古文書

7月29日

 今、音訳に取り組んでいるのは、「帝銀事件と日本の秘密戦」(山田朗著)という本である。この本では帝銀事件の捜査にあたった、甲斐文助捜査一課係長の「捜査手記」からの引用を中心に考察しているのだが、これを読んで731部隊や登戸研究所以外にも、化学・生物兵器や、謀略戦のための部隊や研究機関が数多くあったことを初めて知った。
 以前、「世界は五反田から始まった」の投稿(23・2・19)にも書いたが、大学生の時、空き地で8ミリの撮影をしていただけなのに、やって来た警官にこっぴどく叱られたという経験がある。卒業の数年後、その空き地から大量(百体以上)の人骨が出たと知って驚いた。その場所=戸山一丁目にはかつて国立陸軍病院があり、731部隊との関係も取りざたされたが、その人骨については結局謎のままであるらしい。
 さて、「帝銀事件」は1948年1月26日に起こった強盗殺人事件である。帝国銀行椎名町支店に厚生技官の名刺を持った男が訪れ、赤痢の予防薬と称して銀行員たちに毒薬を飲ませた。12名が死亡(生存者は4人)し、犯人は現金・小切手を盗んで逃走した。単独犯であること、自ら実演してみせ、薬を二回に分けて飲ませた、ピペットを使って器用に薬を注ぎ分けていた、手や声にも震えがなく、終始冷静沈着だったなどの証言から、特捜本部は「薬剤等の扱いに慣れている、人を謀殺した経験がある」といった犯人像を描いた。
 犯人が事件に使用した名刺は残されていなかったが、よく似た未遂事件が二件あり、そのうちの一件で使われた名刺の名前が同一だった。松井蔚(しげる)という実在の人物の名刺だったが、彼にはアリバイがあった。彼は名刺をいつ誰に渡したかいちいち記録していたため、その線を追う別班(名刺班)が作られた。
 それとは別に、GHQの意を受けた刑事部長の特命により、特別捜査班も作られたという。班長だった成智英雄の「回想」によれば、犯人が旧軍の特殊部隊関係者だった場合は「恐るべき影響がおこる」ので極秘に捜査するよう命じられ、また特捜本部に特殊部隊関係の情報が上がらないように裏工作もしたのだという。
 だが、その「工作」にもかかわらず、特捜本部は軍の秘密部隊に肉薄していった。そもそも最初の容疑者であった松井蔚は、ジャワで二百数十人を注射で殺した(本人は過失であったとしているが)というようないわくつきの人物であり、彼の関係から特捜本部が旧軍の秘密戦部隊に関心を持つのは自然の流れだったのだ。
 「捜査手記」には、日本の秘密戦部隊のほとんど全貌が明らかにされていた。731部隊による大量の「マルタ」(人体実験の被験者)虐殺についても語られている(しかし、戸山から出た人骨はそれとはまた別の話だ)。聞き書きのメモの内容が何とも生々しい。中にはあえて露悪的に話す者もいただろうが、多くの者は加害の事実はむしろ過少に、関与も薄かったように申告しているのだろう。それでもまさに「大量虐殺」と言わざるを得ない事実が、戦後間もない頃に語られていたことに驚く。
 特捜本部はなかなか容疑者を絞り込むことが出来ず、そうするうちに「名刺班」が「地道な捜査」の結果、(軍とは関係のない)画家・平沢貞通を逮捕した。平沢は犯行を「自供」し、その後の裁判ではすべて犯行を否認するものの、死刑が確定した。そして執行されぬまま、平沢は1987年に95歳で死去する。「名刺班」の班長だった居木井為五郎は、当然ながら最後まで平沢が真犯人だという立場だったが、「特別捜査班」の成智はその後、「平沢は冤罪で、真犯人は諏訪軍医中佐だ」等と発言したこともあった。
 さて、捜査を阻んだ「壁」として、著者はGHQの介入を挙げている。帝銀事件では現場保全がうまくいかなかったために、使用された毒物の特定ができなかった。登戸研究所の研究員だった伴繁雄は当初、「青酸ニトリ―ルではないか、青酸加里とは思へない」と証言したが、平沢が逮捕されると前言を翻して「青酸加里であると断定」した。法廷でもそう証言している。青酸ニトリ―ルは軍が謀殺用に「開発」した薬品であり、平沢のような素人が扱えるものではなかった。ちょうどこの頃、伴はGHQの「対敵諜報部」に呼び出され、登戸研究所での研究の成果を供与する代わりに戦犯を免責された。このことが証言の変更につながったのではないかというのである。
 著者が指摘するもう一つの「壁」は、実にたわいのないものであった。特捜本部はモンタージュにそって、「年齢五〇才前後、白毛まじりの短髪」の犯人ばかりを追っていた。だが、それが変装であった可能性を検討した様子はうかがえないと著者は言う。プロである刑事たちには、乱歩の探偵小説に出てくるような「変装」など、荒唐無稽な子供だましに思えたのかもしれない。だが、実は旧日本軍の秘密戦部隊は毒物や細菌兵器だけではなく、謀略のための変装術も研究していたことが明らかになっている。もともとこの犯人は厚生技官に扮装しているのだ。
 当時はまだ敗戦から2~3年という社会の混乱期であり、容疑者として名前が挙がった人物の中には、所在すらつかめぬものも少なくなかった。もっと時間があれば、年齢が若すぎるとして当初除外した者を洗い直して、犯人にたどり着いた可能性はあったかもしれない。
 帝銀事件の再審請求は今も続いている。「袴田事件」を見ても再審の扉をこじ開けるのがいかに困難かはわかる。それでも真相を闇に葬らないために努力を続けている人々には敬意を表したいと思う。

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