李琴峰「彼岸花が咲く島」

詩、ことば、文学

3月4日

 国語教師という職業柄もあって、ことばには常に関心を持ってきた。「この宇宙には意味はない/そして意味のないところには/奇跡は起こらない(中略)/人間が言葉の網を掛け/神話を作った/ただそれだけのこと(「宇宙についての覚書」拙著「詩集 物語/世界」)」
 昨年亡くなった言語社会学者の鈴木孝夫も、物が先にあってことばが作られるのではなく、ことばが物を在らしめるのだと書いていた。ことばが違うと見える世界も全く変わる。
 昨年度上期の芥川賞受賞作「彼岸花が咲く島」を、遅ればせながら読んだ。ミステリーではないが、この小説にはちょっとした仕掛けがあるので、ネタは割らない方がいいだろう。「ことば」がモチーフの一つであることは間違いないので、主にその点に触れることにする。
 島では<二ホン語>と<女語>の二つの言語が話されている。この、<二ホン語>が、日本語と似てはいるが異なる言語であることがミソだ。島の少女游娜は登場早々「リー、ニライカナイより来(ライ)したに非(あら)ずマー?」などと言う。一方もう一つの言語、女子だけが習うことを許されているという<女語>は、現代日本語に限りなく近い。
 この島に漂着し、宇実と名付けられた少女が話す言葉は<女語>とよく似ている。だが、彼女は漢字を知らず、「アネスシジャ」「ぺーシェント」などといった英単語を多用する。これが「ひのもとことば」であることが話の序盤で明かされる。
 「うつくしい ひのもとことばを とりもどすための おきて」として、「わがくにには、ふるくから (中略) やまとことばが あるが、ことなるたみである、シナのことばが つたわってきた ことによって おおいに みだれた」から、「シナから つたわってきた キャラクター」「シナから つたわってきた ことば」は「つかわない」と定めたというのである。
 これを読んで僕は、清水義範の「ことばの国」という小説を思い出した。英語が敵性語として禁止され、ビールを「泡出る麦酒」と呼ぶ話だ。確かその後漢字も禁止になるのではなかったか。これは笑話だが、実際に戦後の国語改革の一環で、漢字・仮名を全廃してローマ字のみにすることが真剣に検討されていたことがあると聞く。政治が言語や文化に口を出す愚の、まさに好例であろう。
 話は変わるが、僕は授業の中で、「漢字は英語で何という?」と質問してみたことがある。これに「チャイニーズレター」とでも返ってくればしめたもの、「惜しい、レターは表音文字。漢字は表意文字なので、Chinese character が正解」とつなげられるのだ。漢字が「キャラクター」だというのは、車を運転していて、「危」とか「毒」と書いたトラックの後に着いた時などに実感する。この小説の作者、李琴峰はその Chinese character の本場「臺灣」の出身である。
 さて、島の二ホン語には、「オヤ」はあるが、「ちちおや」「ははおや」はない。「ファミリー」にあたる言葉もない。「ことばが物を在らしめる」という理屈からすると、この島にはファミリーは存在せず、もし一組の男女とその子供が同居していたとしてもとくに意味などはなく、形として認識もされないということだ。この島は決してユートピアではない(ニライカナイは海の向こうにある)が、こういうあり方は作者の理想の社会に近いのだろうと想像できる。
 だが、ここで、「ひょっとしたら<島>にはそもそも「家族」という概念がないのかもしれない」と書かれていることに首をひねってしまった。宇実の母語は「ひのもとことば」だから、「家族」という語彙は持っていない筈だ(もちろん「概念」も)。この部分は、宇美の心中思惟を作者が現代の日本語で解説したことになるが、これはなくもがなであろう。編集者か校正者が指摘すべきだったのではないか。こういう箇所は探せば他にもありそうだ。
 この小説に対しては、「筋立てが明解すぎる」「ステレオタイプ」などの批判もあるようだ。だが、これは複数の言語、複数の文化という視点を持った作者が、日本の最西端の島を舞台に書いてくれた「寓話」なのだ。これは近未来なのか、パラレルワールドなのか、ここに描かれた<二ホン>ほどの排他運動は、現実には「まだ」起きてはいない。しかしゆめゆめ安心はできないと僕は思うのだ。

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