8月13日
前回投稿から三週間も空いてしまった。このブログで僕の生存を確認している友人もいるから、たまには投稿しないといけない。さて、何を書こうか。
最近「X」のアカウントを作った。まだ一度もつぶやいたことはなく、「タイムライン」とやらで他人のつぶやきを眺めている。ちょっと興味を惹かれるものがあった。プロフィールを見ると引用を歓迎していないようなので、ざっと内容をまとめると、この人(おそらく女性)はもともと谷川俊太郎や長田弘の詩が好きで、詩集も持っていたのだが、彼等の詩が女性を性的存在としか見ていないと気づいて以来、全く読めなくなってしまったのだという。これは他のつぶやきに対してのリツィートなのだが、元をたどると一つのポスト(投稿)にたどり着いた。それは書店の壁に「なんでもおまんこなんだよ」という落書きがあって、それが谷川俊太郎によるものだということを紹介したものだった。この最初のポストは特に谷川に対して批判的ではなかったが、これを見た人の中には、教科書にも載るような「立派な」詩人がこんな低俗な落書きをするのかと驚く人も(当然)いただろう。
この詩「なんでもおまんこ」は、丘を見ても空を見ても、「やりたくなってしまう」という男の独白で、最後は「おれ死にてえのかなあ」で終わる。滑稽でそこはかとないペーソスも(僕には)感じられる詩だ。厳密に言えば、「女性を性の対象としてしか見ない」ということとは少し違うのだが、性を取り巻く状況で男女があまりにも非対称である今の現実の中では、高名な男性詩人がこういうものを書くことに拒否感を持つ人(その多くは女性だろう)がいるのもわからなくはない。
ことは谷川や長田ばかりではない。大江健三郎や村上春樹を読んでも性描写が非常に多いし、それが男性優位の状況を前提としているように僕には感じられる。
大江健三郎については、昨年3月31日の投稿「家父長制の亡霊」で、「先ごろ亡くなった大江健三郎の『静かな生活』をこのブログで取り上げた際、大江が自らをモデルとしたKが、『家(父)長たらんとして無残に失敗する』姿を描いていることに触れた。もちろん、大江は戯画としてそれを書いているのだが、大江自身が(大江ですら、と言ってもいいかもしれない)家父長制の呪縛から逃れられていないことを強く意識していたのではないかと思う」と書いたことがある。
大江は最後の作品となった「晩年様式集」で、それまで自分が作中でモデルとしてきた三人の女性、すなわち妹と妻と娘に自分を痛烈に批判させている。もちろんこれもまた彼が書いた小説なので、いわゆるメタ構造なのだが、少なくとも彼には自分が差別する側の人間であることの自覚はあったと思う。
川上未映子が村上春樹との対談で、「女性が性的な役割を担わされ過ぎている」ことを単刀直入に質問したというので、その対談が載っている「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読んでみた。すると、結局見事にはぐらかされてしまっているのだった(文庫版305~311頁)。
川上は村上文学が大好き過ぎ、村上にリスペクトがあり過ぎるせいでどうしても遠慮がちになってしまうようだ。それでも何とか、村上の作品では、「女の人が性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまうことが多い」「いつも女性は男性である主人公の犠牲のようになってしまう傾向がある」ということを指摘した。それに対して村上は「男性であれ女性であれ(中略)その存在自体の意味とか、重みとか方向性とか、そういうことはむしろ書きすぎないように意識しています」と、全くかみ合わない答えをしている。問題提起を全く受け止めていないのだ。それでも川上は、「ねじまき鳥」や「1Q84」の例を引いた上で、「現実世界の多くの女性は、女性であるというだけで生きているのがいやになるような体験をしています。(中略)だから、物語の中でも女性が男性の自己実現や欲求を満たすために犠牲になるという構図を見てしまうと、しんどくなるというのはありますね」と迫る。これに対する村上の答えは、なんと「うーん、たまたまのことじゃないかな、そういう構図みたいなのは。少なくとも僕はそういうことはとくに意識してはいないですね」なのである。
これを額面通りにとれば、村上は自らの所謂「男根主義的なもの」に気付いてさえいないということになる。無意識にそういう(女性が男性の犠牲になるような)構図ばかりを選択してしまうことが問題視されていることを全く理解していない。その点は大江とはだいぶ違う。
ここで話はがらっと変わるが、現代文学に性描写は必要かどうかということについて、具体的な作品を例に挙げて考えてみたい。取り上げるのは芥川賞作家・又吉直樹の「劇場」という小説である。この作品の惹句は「著者初めての恋愛小説」なのだが、実は作中に性愛の描写が全くないという、現代の恋愛小説としては極めて珍しい小説なのである。性交ばかりか接吻やハグのような身体的接触すら描かれない。著者は恋愛小説の「純度」を高めるためにあえてそうしたという。
売れない劇作家の主人公・永田が、女優志望の沙希という女性と出会い、同棲し、別れるまでが描かれているのだが、前述の通り身体的な接触が一切書かれていない。臭わされてもいないので、かなり注意深く読んだが、どのタイミングでそれらが行われたのかも全く読み取れなかった。
小説が主人公の一人称で書かれているにもかかわらず、主人公にとって重要なはずの恋人との性的関りが一切書かれていないということは、それ以外にも書かれていないことがあるのではないかという疑いを読者に持たせてしまう(ミステリー小説における「叙述トリック」である)。そして書かれなかったこととは具体的に言えば、永田による、沙希への虐待や暴力ではないだろうか。もしそういうことがあれば、やはり恋愛小説としての「純度」は下がってしまう(正直に言えば、僕は読みながらこの永田という男性はいかにもDVをしそうなタイプだと感じた)。
結局、現代の恋愛小説においては、性愛場面を全く書かないと、やはり不自然になってしまうということだろう。
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