ミステリーというパラレルワールド③ ~ある読書の思い出

詩、ことば、文学

7月21日

 ミステリー小説やドラマについて書いているうちに、二十何年も前に読んだ(題名も忘れたが)本のことを思い出した。当時よく通っていた飲み屋の「ママ」が、ちょうど読み終えた文庫本をくれたのである。何かの時に、僕がミステリー好きだと言ったのを聞いていたらしい。
 未読だが名前だけは知っている作者、若い頃に江戸川乱歩賞を受賞していて、作品は何度も映像化されている「大家」の作品である。占い師でもある探偵が活躍するシリーズの一冊だった。冒頭、凶悪犯罪の犯人として警察に追われていた人物が水死体で発見される。ここで早くも嫌な予感がした。これはかの有名な「顔のない死体」、犯人が別人の死体を自分に偽装するという使い古されたトリックではないか。だが仮にそうだとしてもきっともう一ひねりあるに違いないと思って先を読むことにした。するとすぐまた躓いた。僕は国語の教師だから、生徒の作文を添削することがよくある。その僕が赤ペンを入れたくなるような箇所が次々に出てくるのだ。主語と述語がきちんと対応していない所謂「ねじれた」文や、助詞の選択が適切でない箇所が、平均して2ページに1回ほども現れるのである。
 さて、名探偵が登場し、神の如き明察で犯罪を未然に防ぐ。だがその「推理」は全く論理的でなく、山勘に過ぎない。
 最初に死んだ男を首領とする犯罪グループのメンバーが殺され、彼らはお互いを疑いながら暗闘を始める。濡れ場もふんだんにあって、まるで通俗的なポルノ小説のよう。最後に明かされる「驚愕の真相」は最初に僕が危惧した通りだった。やはり犯人は最初に死んだと思われていた首領の男で、彼が裏切った仲間を次々に殺していたのだ。それ以外にトリックと呼べるものは一つもない。全編二百数十ページを読むのに正味一時間はかからなかった。面白かったからではなく中身がスカスカなのだ。文意の通らない悪文に引っ掛かりながら読んだので、それがなければ30分で読めていたはずだ。
 読み終えて、さてこれは一体何だったのだろうと考えた。最初に代作を疑った。多忙な「大家」に変わって代作者が書いたという可能性だ。だが、代作をつとめるほどの人物なら、注文に合わせて様々な文体で書き分けるスキルを持っているはず。こんなに文章が下手ではゴーストもつとまるまい。次に考えたのは口述である。売れっ子である「大家」は文章を書いている暇がないので、口述して録音したものを後から「文字起こし」したのではないか。だがその場合リライトの段階で校閲作業が行われるのではないだろうか。主語と述語の不対応や、「てにをは」の誤りなどはそこで直すはずだ。するとやはりこれは「大家」自身が書いたものなのだろうか。「大家」ゆえに、少しばかり文が変でも編集者は遠慮して指摘できないのだろうか。
 最後に奥付の前のページを見て僕は文字通り衝撃を受けた。そこには「本書は〇年〇月、小社より刊行されました」と書いてあった。文庫書下ろしではなかったのだ。それなら単行本と文庫化の最低でも二回、校閲のチャンスはあった筈だ。それに、単行本を文庫化するためにはある程度以上売れる必要があると聞く。つまりこの本は文庫化するほどに売れ、読者からの指摘もなかったということなのだろうか。何ともモヤモヤしてしまったのを覚えている。

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