9月17日
京極夏彦の新作「鵼の碑」が刊行されるというので、シリーズ第一作の「姑獲鳥(うぶめ)の夏」から読み直している。今は五作目の「絡新婦の理(じょうろうぐものことわり)」を読んでいるところだ。実に面白い。読み始めると、一瞬にして初めて読んだ当時に戻ってしまう。当時の僕は新作が出るたびに買い求め、貪るように読んでいた。奥付によれば「姑獲鳥」が発行されたのが94年の9月、「絡新婦」が96年の11月だ。わずか二年強の間にこれだけの作品を完成させる才能には舌を巻く。
「姑獲鳥」の冒頭で、主人公(というか狂言回し)の関口が古書肆「京極堂」を訪れ、その主人と会話する場面で、京極堂主人が延々と語るのは「不確定性原理」についてである。いわく、「量子力学の示す結論は、人間を宇宙の一部と見るか、宇宙を人間の一部と見るかの分岐点を示す」云々…。思えば僕は、もうこのあたりで「やられて」しまったのだ。逆にここで脱落した読者もいるのではないかと思う。作者は早い時点で読者を「選別」しているのだと思うのは穿ちすぎだろうか。
改めて気付いたのは、この「姑獲鳥」が驚くほど短いということだ。たったの430頁しかない。もちろん、普通の感覚なら新書版二段組みで400頁なら堂々たる大長編なのだが、二作目以降が長すぎるのである。次の「魍魎の匣(もうりょうのはこ)」は683頁、「狂骨の夢」でも577頁、そして第四作「鉄鼠(てっそ)の檻」以降の作品ははほぼすべて800頁超となる。中でも「塗仏の宴」は二分冊で、合計すると1300頁近い。
もう一つ気付いたのは、「姑獲鳥」が、本格推理小説の骨法をしっかり守って書かれているということだ。だから、僕は初読の際にメイントリック(という言い方が相応しいかは分からないが)を見破ることが出来た。次の「魍魎」の人間消失トリックもすぐわかった。これは別に自慢しているわけではない。探偵小説を読み慣れた読者なら、当然そのくらいわかるように書かれているということだ。この著者の場合はその先が凄いのである。
ミステリーとしての完成度が最も高いのは三作目の「狂骨」だと思う。一部に僕の苦手な叙述トリックが使われているが、ぎりぎり許容できるレベル。スケールの大きさと読後感の良さで、一番僕の好みだ。
さて、「姑獲鳥」の背表紙にはタイトルの下に赤字で「ミステリ・ルネッサンス」と書かれている。次の「魍魎」は「超絶のミステリ」。それが「狂骨」では「本格小説」、「鉄鼠」ではただ「小説」となる。「絡新婦」以降はもう何も書かれていない。京極夏樹が「ミステリー小説」でキャリアをスタートさせたのは、彼なりの「計算」だったのだろうと思える。
意図は分からないが、四作目の「鉄鼠の檻」は「ミステリ」や「本格」という冠を外された。確かにこの作品には前三作のような探偵小説的なトリックはほとんど使われていない。また、これは解釈にも寄るだろうが、初めて「怪異」が合理的に解決されず、「怪異」のままで終わってしまう作品でもある。作中にちりばめられたちょっとした「ひっかかり」、不思議な「暗合」が最後にはすべてつながっていくのは、前三作同様だが、「鉄鼠」の場合は、それが「姑獲鳥」の世界にまでつながっていくのだ。作者が本当に書きたかったのはこれだったのか、と思った。
初の二分冊となった「塗仏」も、前編の「宴の支度」が連作短編集の体裁で、相互に関連がなさそうなエピソードが語られ、後編の「宴の始末」ですべてがつながるという趣向だった。また、作者はそれぞれの長編のサイドストーリーや、いわゆる「スピンオフ」も並行して書いていた。それらをまとめた連作短編集「百鬼夜行――陰」が、この「塗仏」の後に刊行されるに及び、京極ワールドとも言うべき、一つの閉じた世界が出現したのだと僕は思っている(このシリーズを百鬼夜行シリーズと呼ぶのはこれに由来するのだろう)。
京極はその後、「嗤う伊右衛門」や、「巷説百物語シリーズ」など、健筆を揮って膨大な量の作品をものし、百鬼夜行シリーズの刊行は間遠になった。今回の「鵼」は実に17年ぶりだ。聞くところでは過去作のエッセンスがちりばめられ、過去作の登場人物が結集するというから、まさに京極ワールドの円環を閉じるような作品になるのだろう。これが面白くないはずがない。
だが一方で、僕は初期作のような本格謎解き小説を熱望してもいるのだ。早くも予告されている次回作がそういうものであってほしいと思うのだが…。
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