「わかりやすさ」

音楽、絵画、ドラマ

6月8日

 詩人でフランス文学者の入沢康夫(1931~2018)が亡くなる少し前に、「前衛的な冒険が目の敵にされるようになってきた。『ちょっとやさしくて』『ちょっと悲しくて』『ちょっとはみ出して』、結局うんと保守的で、本当にはみ出した者には残酷で……といった、そういうものが本流になってしまうのかもしれません」と語っていた。

 これも以前書いたことだが、小説でも、漫画やアニメ、ゲームでも、登場人物のキャラクターがぶれずに、その中から各人が「推し」のキャラを見つけられるようなものがウケる。キャラは、「友情のためには危険もいとわない」など、単純でわかりやすいものが好まれる。
 僕は最近ユーチューブを始めたが、ユーチューブはもう古く、時代はティックトックだそうだ。ティックトックは15秒から60秒の短尺が特徴だが、その短さで複雑難解な内容を表現することはまあ無理だろう。それでなくともタイパ重視で倍速視聴とか、ファスト映画とか、早く結末を知りたくていきなり最終回とか。3時間も4時間もある、テオ・アンゲロプロスの映画なんか絶対見られないだろうな、と思う。

 畏友Kはこのブログにもたびたび登場するが、僕が大学時代一緒に詩の同人誌をやっていた仲間である。彼は長年建築設計の仕事をしたのち、今はシナリオや戯曲を学ぶ学校に通っている。そのKが言うには、学校で評価されるのは「構成ができていて読みやすいもので、既視感のある感じの作品」ばかりなのだという。彼が「発想が面白いと思ったものは物語としてできていなかったりして、バッサリ切られて」しまうとも。若い学友たちとの交流ではみんな「共感を手探りしている」感じがする、世の中が「共感にこだわり過ぎ」ではないかとも言っていた。SNSの発達で、「常時接続」が当たり前になった世界では、「人と違う」ことなど誰も求めないのだろうか。

 そんなことを考えていたら、今日の朝日に載った俳優、松重豊の言葉が面白かった。僕はこの人は「孤独のグルメ」ぐらいしか知らないが、ご本人はあれが代表作と思われるのには大分抵抗があるようだ。

「やはり若い人は、物語を構築する上で、わかりやすさを求めるんですね。この人は善人なのか悪人なのか、『正解』を欲しがる。でも、人も社会も当然そんな一面的なものではなく、わからないことだらけです。だから、幅を持たせよう、あいまいな部分を残して、あとは見てくれる人の想像力にゆだねようという話をしました。(中略)考えてみれば、かつては寺山修司さんの『天井桟敷』や、唐十郎さんの『紅テント』など、わかりにくい芝居が当たり前にあった。ベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』の面白さと不可解さ。わからないからこそいつまでもひかれるんだけど、そういう演劇・映画体験がいまは減っているのでしょう。僕ら世代の責任です。
 見た人全員が『泣けた!』としか言わないようなものを、そもそも表現としてやる必要があるのか。観客が、鑑賞後も『あれはどういうことだったんだろう?』と想像力を働かせ、考え続ける。がんじがらめの中でも、風刺やパロディーもうまく使えば、そういう作品をつくれるはずです(中略)目の前にあるものだけを信じるのではない、目には見えないものへの想像力を涵養(かんよう)したい。僕らの仕事は『不要不急』なんて言われがちですが、そこには使命と責任を感じています」。

 現実の世界はわかりやすくなどない。だから「わかりやすさ」を求めるというのも、確かにわからなくはないのだが…。このままでは、入沢の警告通りの世の中になって行ってしまうという気がしてならない。民俗学者の赤坂憲雄も「『わかりやすさ』は、だれかを敵と見定め、憎悪を煽ることへと地続きなのだとも感じています」とかつて言っていた。

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