いわゆる「差別語」について

詩、ことば、文学

1月27日

 高校の国語教科書の定番教材に、芥川龍之介の「羅生門」がある。主人公の下人が羅生門の楼に上がると、そこにはおびただしい数の人の死体が打ち捨てられており、その死体たちが「永久に、唖(おし)のごとく黙っていた」という表現がある。この箇所の教科書での扱いは、①そのまま載せる、②本文はそのままにして、「『唖(おし)』は差別的だとして、現在は使用が望ましくない語とされている」等の注釈をつける。③「唖のごとく」を文節ごと削除する、の3通りに分かれる。①は、もう今はほとんどないと思われる(僕は既に教職を離れているし、在職時ももちろんすべての教科書を閲覧したわけではないので確信はないが)。②は、個人的にはこれが正解だと思うし、これを機会に差別語や差別表現について考えさせる授業が出来るとよい。だが、中途半端な取り扱いはできないし、全体の授業時間も考えるとなかなか難しいだろう。となれば、③に落ち着く。しかし、疑問も残る。今日の目から見て不適切とされる表現を全ての教科書から追放してしまえば、それはやがて死語になってしまうだろう。それでいいのだろうか。
 僕は主に視覚に障害のある人のために、「音訳」するヴォランティアをしている。今読んでいるのが、自身も視覚障害者である著者が、様々な文学作品に描かれた視覚障害者像を考察するという本(高林正夫⦅高はハシゴ高⦆著「ブラインドロードの旅」)だ。この本の中に、視覚障害者として、差別語や差別表現に寄せる思いが吐露されている。彼はこう書いている。「そもそも、『盲目(めくら)』という言葉は、盲人(視覚障害者)が視覚に欠陥があるが故、一人前の人間扱いをされず、しかも先祖の因果か何かのように恐れ、忌み嫌われていた時代に、そういう実態をも含め使われていました。ですから『盲目(めくら)』という言葉のなかには、人をさげすみ、人間としての価値を否定する差別的な意味が含まれています」。その彼が夏目漱石の『夢十夜』第三夜を朗読したものを聞いた時、「盲目(もうもく)」と読んだものより「盲目(めくら)」と読んだものの方により「自然な流れ」を感じたとし、文学的な表現としての「盲目(めくら)」と言う意味合いが強かったのだろうと書いている。これは仕方のないことだ。川端康成の「雪国」のラストで、駒子が「この子、気が違うわ、気が違うわ」と言う部分を、「この子、精神に異常をきたすわ」とか「統合失調症になってしまうわ」と書き換えることはできない。そんなことをすれば文学的興趣が損なわれてしまう。それと同じことである。
 これが英語なら、「blind」は、「Love is blind」とか「blind spot」とか、ごく普通に使われている。エド・マクベインの「87分署シリーズ」の敵役に「デフ・マン」がいて、日本では「つんぼ」が使えなくなってからは「死んだ耳の男」などと訳されている。この「deaf」という言葉にしても、聴覚障害者の競技会を「デフリンピック」というように、普通に抵抗なく使われているようだ。障害者は「disabled」といい、国連の「障害のある人の権利に関する条約」の英語本文でも使われている。これなど、「~できない人」という差別的なイメージを僕などはつい感じてしまうが、特段そういうことはないようなのだ。「世界標準」では、ことばを変えるより実効ある障害者施策の方が重要と考えられているからであろうか。
 日本語の「めくら」という言葉は「目暗」から来ており、やや露骨に過ぎるとも思えるが、本来侮蔑の意味はない。これがだめなら、「失明」や「晴眼者」だって同様だろう。この「めくら」や「めしい」は本来の日本語、つまり和語である。「盲目」や「盲人」は中国由来の言葉、すなわち漢語である。「視覚障害者」となると、これは漢字の造語能力によって作られた新しい「術語(テクニカルターム)」である。いくら言葉を変えたところで、それが侮蔑の意味で、差別的な文脈で使われたなら、やはりそれは差別表現になるだろう。
 つまり、「めくら」が差別語とされるのは、差別の歴史をより多く纏っているからというに過ぎないのだ。それでも、聞くだに辛いという人が多くいる以上、差別語とされるのは仕方がないのだろう。他にも、「おし」「つんぼ」「ちんば」等に付いてしまった差別語のイメージは今となっては拭いようもない。もちろん僕も日常生活の中でこれらを使うことはないし、そもそも好きな言葉ではない。だが、だからといって抹殺してしまえば良いというものではない。過去をなかったことにはできないのだ。
 この本の中でも、井上ひさしの「薮原検校」が初演時、「盲(めくら)」と言う言葉を多用して批判を浴びたことに対して、「批判は当たっていない」と作者を擁護している。「この作品における杉の市(盲人)の生き方は、従来よりずっと描き続けられてきた、障害を負ったが故に悲惨な目に遭ったり、苦しみ悩む憐れな盲人・障害者像のイメージを一変させるものでした」等と書いているのだ。自身で「めくら」は差別語だと書いている部分と撞着するところもあるが、井上ひさしが盲人を貶めたり、笑ったりする意図がないことは明らかだと認めているからであろう。こういう議論が、早くから出来ていたら良かったのかもしれない。

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