ドラマ「雪国 Snow Country」

音楽、絵画、ドラマ

4月21日

 BSNHKのドラマ「雪国 Snow Country」を見た。原作は言わずと知れた川端康成の代表作である。冒頭、「現在では配慮すべき用語」が使われているという注意書きが出る。本当は配慮すべきは用語だけではないのだろう。主人公の島村は東京に家庭を持ちながら、静養先の温泉地で芸者の駒子と情事を楽しんでいる。今なら不倫である。時代が違うと言えばそれまでで、それが作品の瑕にはならないと思うけれども、決して純愛物語ではないことは知っていなくてはならない。何しろ「この指が覚えている」女に逢いに行くのである。
 僕がこれを初めて読んだのは中学生の時だから、ずいぶん背伸びしたものである。島村と女が初めて一夜を共にする場面。「額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えて」いた女が、次には「よろこびにさからうためにそでをかんでいた」という、この間に行為があったわけだが、そんなの中学生に読み取れるはずがないではないか。
 いきなり大脱線したが、ドラマの話である。冒頭の「国境の長いトンネル」が鉄道ではなかったのには驚いた。越後湯沢も今は新幹線が通る都会になってしまっている。ロケは会津や那須で行われたらしい。それでも信号所の場面は欲しかった。うんと抽象化したセットでもよかったのではないかと思う。さらに「夕景色の鏡」の場面も拍子抜けするほど短い。せっかくほとんどセリフのない行男に高良健吾をキャスティングしたのだから、ここはじっくり撮って欲しかったし、今の技術なら原作通りに再現だってできるはずだ。このドラマでは印象的な「絵」を多く省いてしまっている。「夕景色の鏡」と対になる「白い朝の鏡」はまるごと省略されてしまった。
 奈緒の駒子はミスキャストとは思わない。何より清潔な感じが良い。19から21歳という駒子の年齢よりは上だが、当時の人は今より老成していたろうと思う。ただ、あまりにも切り口上のセリフが多く、怖い女になってしまっていたのが残念だ。これは女優のせいではなく、演出の問題だと思う。演出家は駒子をファムファタルとして描きたかったのだろうがそれは違う。駒子が本当に激したのは、島村に「いいなずけ」の墓に行こうと言われた時、島村の「いい女だね」という言葉を聞きとがめた時など、そんなに多くはない。島村も彼女に翻弄されているようでいて、それを楽しむ余裕を持っている。
 島村の前で三味線を披露する場面は快晴の朝で、駒子は「こんな日は音が違う」というのだが、ドラマでは低く垂れ込めた雲と雪の中だった。原作には「音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの山々まで真直ぐに響いて行った」とあり、ここは島村が駒子の生き方に圧倒される重要な「場面」なのだが、ドラマではさらりと終わってしまう。彼女が宿の裏から熊笹の斜面を「搔き登って」部屋に忍び込み、押入に隠れたエピソードなども省略するには惜しい。
 原作を改変した部分として気づいたのは二点。①島村が駅に着いた時、駒子が行男を迎えに来ていた。原作では島村は早くからそれに気づいていたが、ドラマでは駒子と別れて帰る時に、初めて思い出すことになっている。②「駒ちゃん」と呼ぶ葉子と、「葉子さん」と呼ぶ駒子の人間関係を島村がいぶかしむ場面は原作にはない。
 高橋一生の島村は悪くはないが、時にセリフが聴き取りにくいのが気になった。こちらは駒子とは逆にもっと老成した感じの方がいい。一度TVで見ただけだが、映画版の木村功はよかった。葉子の森田望智も悪くないが、「悲しいほど美しい声」がほとんど聞けなかったのが残念。そもそも貨物列車に乗る弟を呼ぶ場面も、湯船で手毬唄を歌う場面もない。この脚本は、原作の重要な「言葉」は丁寧に拾っているのに、印象的な「場面」が多くカットされてしまっている。ラストの雪中火事にしても、肝心の天の河が映らない。ここまで外しているのは尺の問題ではなく、もう確信犯としか思えない。ラストにミステリードラマの謎解きシーンによくあるような回想場面があり、これがなければもっと丁寧に「場面」を描けたはずなのだ。つまりはこの回想シーンこそが、脚本の藤本有紀が真に見せたかったものなのだろう。
 その回想場面。まず、スクリーンに踊りの稽古をする幼い駒子が写し出される。行男との淡い交情や島村との出会いが駒子の立場から語られてゆく。島村に身をまかせた日は、師匠から行男が腸結核であることを告げられ、泥酔して部屋を訪ねたのだ。「あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。私じゃないのよ」「あんた笑ってるわね」等、島村に向けた言葉は、本当は行男に向かって言っていたのだ。東京から帰る行男を迎えに行くと傍には葉子が付き添っており、同じ列車で島村が再びやって来たこと。ここにこれらを入れることで駒子の人物像に一本筋が通る。確かに一つの読み方の提示ではある。だが駒子の人物像が固定しても、それで彼女の魅力が増すわけではない。それにこれでは駒子が言うところの「新派芝居」そのものではないか。
 もともと川端は綿密にキャラクター設定をして書くタイプの作家ではない。だいぶ話が進んだところで、五年も続いている旦那があると言い、「私のようなのは子供ができないのかしらね」と言いながら、一度も生き身を許していないと、矛盾したようなことを言う。額面通りに取れば、彼女は生殖の仕組みを理解していないことになる。以前にも浜松の男に求愛されたが、何もなかったと言いながら、妊娠したかと心配だったとも言っていた(このエピソードはドラマではカットされていた)。言動が不安定なのは葉子も同じ。作者は常に調和を破ることを心掛けているので、むしろ固定した人物像を結ばないように書いているように思える。
 藤本は、駒子を確かに血の通った一個の人物として描きたかったのだろう。だが作者の川端はそれよりは夢を見たかったのだ。それを男と女の違いと言ってしまえばステレオタイプに過ぎるだろうが…。だが、やはり最後の雪中火事の場面だけは、降るような星空であって欲しかったと僕も思うのだ。

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