音楽

音楽、絵画、ドラマ

4月11日

 『オンガ クオコル」オンガ クタユルコトナシ」』というのは、三島由紀夫「音楽」のラストだが、ここで果たしてどんな音楽が鳴り響いたのかは読者にはわからない。わからないから、読者は脳内に好みの音楽を鳴らせばよい。ここで言う「音楽」とは冷感症の患者のオルガスムスを表す隠喩なのだから。
 これは僕だけかもしれないが、音楽の好みが偏っているせいか、作中に出てくる音楽が好きになれないと小説の興趣も減じられてしまうことがある。大江健三郎は好きだが(読むたびに嫌味さに辟易しながらも、最後まで読まされてしまうのはやはり好きなのであろう)盟友の武満徹の音楽は実はあまり好きではないし、村上春樹は好きだが(読むたびにもう次はやめようと思いながらも、新作が出るとまた買って読んでしまうのはやはり好きなのであろう)彼の音楽の趣味は僕と全く合わない。文学と音楽は親和性が高いと思われるが、あまり音楽に頼ると、食われてしまうこともあるのではないかと思う。
 僕にとって、文学と音楽が調和している最も幸福な作品は、福永武彦の「死の島」である。僕はこれを、二十世紀の日本文学の最高到達点の一つだと思っているが、この作品ではシベリウスが効果的に使われている。「トゥオネラの白鳥」は小品だが特に好きだ。
 音楽は、あらゆる芸術の中でも最も優位性を持っていると思う。それだけで存在することが出来、何の補助も必要としない。浸透力や永続性も他の芸術とは桁違いだ。最近、恩田陸の「蜜蜂と遠雷」とか、中山七里の音楽ミステリーなど、演奏場面を活き活きと描いた作品を読んで、その描写の巧さに舌を巻いた覚えがあるが、それももとの音楽があってこそだろう。ことばは音楽を超えられない。
 「音の世界」の精妙さを思うたび、ここには何者かの「意志」が働いているのではないかとか、誰が何のためにこんな世界を作り上げたのかとか思ってしまう。だがやはり、もともと意味などはなく、言語と同様、人間が世界を理解するために創り上げた営みなのだろう。ことばの違いで世界の見え方が異なるように、音楽が違えば世界は違って見えるはずだ。「音楽は世界共通語」などと言えるのは、西洋音楽によるグローバリゼーションが進んだからにすぎない。
 少し話は変わるが(大筋では変わらない)、長調の曲は明るく、短調は悲しく感じられるのは何故なのかずっと疑問だった。いろいろ調べてみたが、完全に説明するのは難しいようだ。後天性の部分も多いのではないかという。だが、僕が幼い頃、何かの雑誌の付録だったのか「子どものためのクラシック音楽」というソノシート(わからない人は検索を)が我が家にあって、それで初めて聴いた「エリーゼのために」を既にものがなしい曲だと感じていた記憶がある。この感覚は、いつ刷り込まれたものなのだろうか。
 終戦直後に大流行した「リンゴの唄」という曲を、当時の人々が「明るい曲」と感じていたという証言を聞くことが多い。人々が今日食べるものにも不自由するという状況で、リンゴの気持ちを思いやるというような浮世離れした歌詞が「明るい」というのはわからなくもない。だがこの曲の短調のメロディーは、僕には明るくは聴こえない。同様の例は他にもあって、「東京音頭」や「青い山脈」なども(同じくマイナーキーの曲だが)僕より上の世代には、「明るく」感じる人が多いようなのだ。昨年亡くなったなかにし礼も、「リンゴの唄」を「底抜けに明るい曲」と言っていたというのを読んで、僕のなかでひらめくものがあった。なかにしは旧満州の出身だが、父親が浪花節が大好きで、姉は日本舞踊をやっていた。レコードを内地から取り寄せてよく掛けていたという。なかにし自身も、生涯にわたって人形浄瑠璃や歌舞伎のファンだった。シャンソンの訳詩から作詞家に転じたなかにしだが、幼時から邦楽に親しんでいたのである。ほぼ西洋音階のみに囲まれて育った僕の世代と、日常的に長唄やら義太夫やら浪曲やらを聴いて育った世代では、調性に対する感じ方も違うということではないか。これは証明できないが。
 だが、そうだとすると、きわめて個人的だと思っている僕の音楽の好みなども、実は生まれた時代や地域によって決められていたことになるのだろうか。それはそれで何だかモヤモヤする話ではある。

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