9月2日
「ハートネットTV 夏休みが終わっても #8月31日の夜に」という30分番組を視聴した。「ろうそくを買って…夏を無事に生き抜いたことを一人でささやかに祝うのだ」という18歳からの投稿の言葉で番組が始まる。明日から学校が再開されるタイミングで、「#8月31日の夜に」や、番組のサイトに寄せられた主に10代の声が次々に紹介され、いじめ経験があるという芸人の斉藤慎二、モチベーショナルスピーカーのひかりんちょ、NPO「フリースクール全国ネットワーク」の事務局長の男性の三人がそれをもとに語り合うという構成だ。画面下にはリアルタイムで寄せられたつぶやきも表示される。
「クラスメイトや先生とのトラブルは一切ないし、部活にも参加できている。それなのに、学校へどうしても行きたくない。学ぶことは本当に大好きなのに学校に行けない」という声が紹介され、NPOの男性は「不登校の子の3割はなぜ学校に行けないのかわからない(言語化に至らない)」と、説明していたが、このことは先日読んだ「ルポ誰が国語力を殺すのか」にも書かれていた。また、これも以前取り上げたEテレのドキュメンタリー「谷川俊太郎と死の絵本」で、「友人関係も良好で、普段は明るくふるまっているような子が何故か突然『生きられないような気持ち』になってしまうことがある」と語られていたが、一脈通じるものがあるような気がする。それとは別の子の「まわりの自分のイメージ『やさしい』『いつも笑顔で元気で』が本当の自分とあわなくてしんどい」という言葉もこれとよく似ている。
番組の性質上、結論めいたことは誰も言わないし、解決策が示されるわけでもない。印象に残る投稿があった。「死にたいっていうのは影みたいにいつも自分のとなりに居続けるもので、それを消そうとか、ダメなものだと思うのはもうやめて、『死にたい私が普通の状態』と思って生きていくことにした」。これに、「あきらめとはとらえたくない」とジャンポケ斉藤、「自分も、自分の弱さを引き受けてから楽になった」とNPO氏、「『死にたい』って言ってもいい。自分が自分の味方でいること」とひかりんちょがコメントした。
番組の最後、斉藤が「こういう気持ちを吐き出す場所が僕の頃にはなかった。うらやましい」と言う。確かに昔はこういう場所はなかった。だが、昔だって学校に行きたくない子や、孤独に苛まれる子はいたはずだ。僕(61歳)の昔を振り返ってみる。
小学生の頃の僕は体が弱く、しょっちゅう学校を休んだが、実は半分はずる休みだった。母もうすうすは仮病に気付いていたと思うが、自分も働いていて忙しかったせいもあるのだろう、何も言わなかった。学校に欠席連絡を入れることもないし、学校から電話がかかってくることもまずなかった。この当時はまだ電話のない家庭も珍しくなかったし、登校拒否(後の不登校)が社会問題になるのはずっと後のことだ。学校嫌いだった僕は、適当にずる休みを繰り返していたが、それで本当に学校に行けなくなるというまでには至らなかった。その後、小学校四年の時の担任が、ほとんどえこひいきと言っていいぐらいに僕を守り立ててくれ、以来は学校に行くのがそれほどいやではなくなった。ところがそうなってからの方が、8月31日の憂鬱は強くなったのだから不思議である。
甲子園の決勝が終わったぐらいから、胸がつかえるような、頭を押さえつけられているような感じがあり、それが日を追うごとに強くなる。31日には、いっそ学校が火事で燃えてしまえばいいのにと妄想する。だが、そんな妄想をする自分を客観視することで少し落ち着くことが出来たのかもしれない(当然だがあくまでも妄想だからいいのであって、実際の放火などは論外だ)。恥ずかしながら、実は大人になってからも同じようなことはよくあった。最寄駅から職場に向かう途中、「直下地震で地割れが起こって、僕がいる地点と職場の間に深い谷が出来て、物理的に職場に行けなくなる」ことを夢想したりした。要はそういう自分を楽しめるようであればいいのである。
戦後の物のない時代に子ども時代を過ごした人が「あの頃は客観的には貧しい状態であっても、みんな同じだから気持ちは暗くなかった。それに対して現代の貧困は、豊かさの中の貧困なので厳しく救いがない」と語っているのを聞いたことがある。孤独もまた同じかもしれない。子どもの孤独なんて昔からあったことだし、そもそも子どもに限らず人は皆孤独なのだ。それがSNSでいつでもどこでも繋がることができる、「常時接続」になったから、かえって孤独に耐性を持たなくなったのかもしれない。
「昔はよかった」というだけでは救いにならないだろうが、時代や環境が違えば、自分の悩みはなかったかもしれないと思えば、少しは気持ちが軽くなるのではないだろうか。
最後に旧詩を一つ。
夏休み
隠花植物という言葉は
最近はあまり使わないらしい
そんな隠花植物の
シダ類の柔らかな葉を
大きな舌で舐めとるように
ブロントサウルスが食べてる
そんな夢を見た
とうになくしてしまった
原色の科学図鑑
今も覚えている頁のなかに
僕の詩はある
プリズムと青写真と星座早見
ボール紙の模型と
貝の標本
八月の終わりには
いくつになっても
不思議な焦燥がある
大切ななにかを
何処かに忘れてきたような
遠い遠い夏休み
僕の詩はきっと
今もそこに眠ってる
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