ワールドカップと「羊の歌」

詩、ことば、文学

11月30日

 ワールドカップサッカーの初戦で日本代表がドイツに勝利した後、TVの女性コメンテーターが「すごい優勝候補に勝つと、結構次は負ける」と発言して物議をかもしたという。彼女は元バドミントンの選手で、自分の経験を語っただけなのだが。その言葉の通りに第二戦、日本は「格下」のコスタリカに負けてしまうのだが、ここでもコスタリカを応援する発信をして「炎上」した人がいるらしい。批判する側の言い分としては、せっかく盛り上がっているところに水を差すな、ということなのだろう。だが、日本人なら日本を応援して当たり前という同調圧力が気持ち悪くて、天邪鬼なことを言ってみたくなる気持ちは僕もわかる気がする。ウルトラセブン「ノンマルトの使者」で、「人間はずるい」という真市少年にアンヌ隊員が「私は人間だから人間の味方よ。真市君もそんなこと言うべきじゃないわ」と言うくだりを思い出した(ヒロインのアンヌにあえてこれを言わせるのが金城哲夫脚本の凄いところ)。
 コスタリカ戦の後、日本のサポーターが「僕たちの応援が足りなかったのが敗因」と語っているのをTVで見て、さらにモヤモヤした気分になった。彼はもちろんそう信じているのだろうが。なぜか昔読んだ加藤周一の「羊の歌」を思い出した。
 古い岩波新書を引っ張り出してきて、該当の箇所を探した。一高生時代、庭球部員だった加藤が三高(京都)との定期戦の前の壮行会に出た後の感想。「『どうしても勝ちたい』というべきところで、『必ず勝つ』というのは、修辞上の悪い習慣であり、少なくとも知的『選良』の集りには適しくないだろう――と私はその大集会にはじめて出席したあとで言ったことがある。『勝ちたい、などという生ぬるいことではいけない、必勝の精神、庭球部は断じて勝つ、この精神が大切なのだ』と誰かが説明した。かくしてすでに『精神』とは、『必勝』と結びつき易く、修辞上の正確さとは結び付きにくい何ものかであった。一高三高戦の全寮大会は、その『精神』において、一九三〇年代後半の日本社会から決して孤立していなかったのである」。
 加藤はまた、自分たちの庭球部の主将が、明らかに技術も体力も優れた相手に勝った試合を評して、「私は、『精神力』の効力をみとめないわけにゆかなかった。しかし同時に、そうまでして『勝つ』必要があるだろうかということも、考えないわけにゆかなかった。技術の段ちがいに優れた相手を、私たちはいわば野次り倒すことに成功したのであり、それはフェア・プレイではない」と言う。――どうだろう。いかにも加藤周一らしい考えではないか。
 もう一箇所、この本の終わり近く、加藤は東大付属病院の医局で副手を務めている。太平洋戦争の戦況がいよいよ悪くなってきた頃のこと、日本軍が守備するある島に米軍が上陸したというニュースを聞いて、加藤が「どうせまた米軍が占領するのだろう」と呟くと、それを聞きとがめた若い医師が「どうせまた、とは何ですか」「けしからぬ」「敗北主義だ」等と責める。加藤がそれに返した言葉、「ぼくは島の日本軍がおそらく敗北するだろう、といったので、敗北することが望ましい、といったのではない。敗北することが望ましい、といったとすれば、精神的な裏切りで、敗北主義かもしれない。しかし、敗北しないことがどれほど望ましくても、その望みと、おそらく敗北するだろうという判断とは、全く関係がない(中略)大学は学問をするところだ、学問にとって信念などはびた一文の値うちもない。われわれは、どういう事実を知っているか。上陸した米軍の兵力も、島の日本側の兵力も、われわれにはわからない。われわれの知っている事実は、太平洋の小さな島に米軍がすでに何度も上陸し、上陸して占領しなかったことは今までに一度もなかったということだけだ。それだけの事実から、今度の上陸の成功と失敗のいずれが、より確からしいと判断できるか。ぼくは米軍が確かに成功する、とは決していわなかった。おそらく成功するだろう、といったのだ、そのどこにまちがいがあるのか。それが情報局の気に入らぬだろうというのなら、話は別だ。はっきりそういったらいいじゃないか。ただ情報局をかさに着て、いいがかりをつけるのはよせ。敗北主義だの何だのと、馬鹿々々しくて聞いちゃいられない」。
 これらを引用して、僕は何を言おうとしているのか。今の状況が一九三〇年代に似ているとまでは言わない。もとより僕は一九三〇年頃の空気感も知らない。ただ、科学技術等と比べて、人間の心性はたいして進歩しないものだと思うだけだ。
 僕はサッカーを観るのは割と好きで、贔屓のJリーグクラブもあるのだが、ワールドカップは見ようと思わない。オリンピックもそうだが、日ごろこの国をたいして愛しているとも見えない人々が、俄か愛国者になるのを見るのがいやなのである。
 サッカーというスポーツの性格もあるのか、とにかく熱くなる人が多い。外国では暴動もよく起こる。オウンゴールを犯した選手が、帰国後殺害されるなどということも過去にあった。「たかが〇〇、されど〇〇」とよく言うが、サッカーに(またはサッカー応援に)人生を賭けてもよい。だが、「たかが」の部分を忘れて命のやり取りにまでなってしまっては愚かであろう。

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