10月14日
僕は長らく都立高校の教員をしていた。つまり地方公務員だったわけだ。公務員は「全体の奉仕者」とよく言われる。憲法15条2項で、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と規定されているからだ。これはしごく当たり前のようでいて、よく考えると何のためにあるのかよくわからない条文だ。例えば、公務員が入札などに関わった場合、特定の人を優遇するようなことがあってはいけないのは当たり前の話だ。わざわざ「全体の奉仕者」などを持ち出すまでもない。
既に退職して久しいのに、なぜ今こんなことを考えたのかというと、10月11日付朝日新聞の「耕論 君が代 歌わせたいのは」を読んだからだ。「『君が代』の歌詞を暗記している子どもの数を、地方の教育委員会が今春調査した。式典で歌わない、起立しないという教員が処分されてきたが、歌わせたい側の論理を改めて考えた」として、三氏の意見が載っている。朝日新聞らしく、教委の調査を肯定的に論じているものはなかった(これが産経新聞なら全く違っただろう)が、元文部官僚の寺脇研のみは、「内心の自由」を唱えて国歌斉唱しなかった教員に対して批判的だった。要点部分を引用する。
「卒業式や入学式で国旗・国歌を使用する際、自らの思想ゆえに自分だけは歌えない、起立できないとあからさまな態度を表明する教員の態度は疑問です」「憲法15条で『全体の奉仕者』と位置づけられた公務員が、国民の中にある考え方とは対立する思想を表に出すと、反対の立場の国民は、ちゃんと奉仕者になってくれるかどうか疑いを持ちかねない」。
言葉足らずの責は、寺脇にあるのか聞き書きをまとめた記者にあるのかわからないが、後段で「国民の中にある考え方」とは、具体的には「式典等の『国歌斉唱』時には、みんな一緒に起立斉唱すべきだ」という考え方を言うのであろう。
近年の意識調査等では、皇室に親近感や崇敬の念を持つ人が多く、「君が代」の歌詞にも疑問を持たない人が多いことは知っている。だが、もちろんその反対の人々もいる。反対の人の立場からすれば、唯々諾々と国歌を斉唱する公務員の方が「奉仕者になってくれるかどうか」疑わしく思うだろう。憲法15条の言う、「全体」とは「多数派」のことなのだろうか。憲法学者の見解は知らないが、少なくとも語学的解釈では「全体」と「多数」は全く違う。
「国歌は歌うべき」と考える人でも、「歌いたくない人にも強要すべき」「反対する人は処罰すべき」とまで考えているだろうか。寡聞にしてそういう調査を知らないが、そこまでの人は少ないのではないかとも感じる。
東京都教育委員会の通達には、「式典会場において、教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」とある。処分された教職員たちは、国旗を引き下ろしたり、奇声を発して斉唱を妨害したりしたわけではなく、ただ静かに座っていただけだ。いわば「不作為」である。国民の中に対立する考えがあるような課題に対処する際、誠実に「全体の奉仕者」たらんとすればするほど、何もできなくなってしまうということはありうるのではないかと思う。
寺脇は前段部分で「卒業式や入学式で国旗・国歌を使用する際」という言葉でさらりと言っているが、学校の式典において国旗や国歌を使用するというのはアタリマエのことではない。国民の間に異なる意見のあるものをわざわざ持ち込むから混乱が生じる。そもそも、学校の式典に国旗や国歌を持ち込むというのは極めて「政治的」な行いなのである。その部分に触れずに、不起立教員のみを非難するのはフェアではないだろう。
寺脇は最後に、自身は「31年余り公務員だった時期は、内心を明かさずふるまってきた」と結ぶ。文部行政のトップだった人物のこのような「慎ましさ」が、今日の政治(家)の教育介入を許してしまったようにも思えてしまうのだ。
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