「貧困」について

食、趣味、その他

7月31日

 7月26日朝日新聞の「耕論」は、「子どもの貧困 この10年」であった。これを読んで僕がこの間漠然と考えていたことが少しだけ像を結んだような気がした。


 都立大教授の阿部彩は、2008年に「子どもの貧困」という本を出したときに、編集者から「『貧困』がタイトルに入っていると売れない」と言われたという。当時は日本に貧困が存在することすら認識されていなかったのだと。
 僕は以前この欄の「『一億総中流』という時代(22・2・23)」で、「あの」丸山真男が、1981年の時点で、「貧富の差は今の日本にはないから、『貧乏』をテーマにすること自体が古臭く思えるかもしれない」と書いていたことを指摘した。勿論、貧乏な個人なり家庭はいつの時代にもあるが、この頃はそれが社会問題にならない、ある意味幸福な時代だったのだと言えるだろう。そしてそれは2008年の時点まではまだ続いていたのだ。
 阿部は、タイトルを「子どもの貧困」としたのは、貧困を「自業自得」と考える人々に対して、「貧困を子どもの視点から訴えれば、こうした自己責任論を回避することが出来る」と考えたからだという。そしてそれは一定の成功を見たといえる。


 経済学者で法政大名誉教授の原伸子は、「貧困を生んでいる社会の構造」をそのままにして、「『将来自立した労働者になるため』の教育支援」ばかりを重視する現在の政策に疑問を投げかけている。その「教育支援」の実態は、「官から民へ」の合言葉による、福祉の市場開放だった。結果として「社会政策は、資本主義の中でどうしても生まれる矛盾を修正すべきもの」であるべきなのに、福祉を「投資」と扱うことで、様々なゆがみが生じていると彼女は言う。
 古くは「年越し派遣村」の人々に、「この人たちは本当に働く気があるのか」と言い放ち、一部の不正受給に端を発した「生活保護バッシング」では、生活保護を受けることを「恥だと思え」と言うなどの、保守系の(つまりは政権側の)政治家の発言は、貧困はあくまで「自己責任」であって、社会問題(つまりは自分たちの失政の結果)ではないと強調したいからのように思える。「資本主義の中でどうしても生まれる矛盾」を、「投資」で解決しようという姿勢は、最近で言えば「GO TO」等のコロナ関連の経済振興策にも通底する。ある自民党議員は、「支援を必要とする人に届いていない」という批判に対し、「困っている人を直接助けるのでは『共産主義』になってしまう」と言ったという。


 地方の貧困家庭で育ち、大学卒業後ライターをしているヒオカが、「大人になった今も感じている貧困の影響」は、「貯金や、物持ちの良いものを買うなどのお金のリテラシーの欠如。季節行事や誕生日に何をしていいのかわからない」などの「目に見えにくいもの」で、「そうした価値観や文化は、将来の所得に直結」はしないが「人生の総合的な安定や生きる力」につながるという。――切ない。社会問題としての貧困を直視してこなかった間に、社会の分断はかくも進んでしまったのだ。


 政治とは「国民を幸福にすること」ではない、他人を幸せにすることができるのは広義の芸術家(芸能人やスポーツ選手、料理人なども含まれる)だと、以前の投稿(「ドラマ『17才の帝国』22・5・24」)で書いた。政治の役割は、社会の中にある不幸の因子を取り除くことなのだ。昔、菅直人という政治家が「最小不幸社会」と言って批判されたことがあった。実際に彼がやったこと、やらなかったことの評価はさておいて、理念としては正しかったと僕は思っている。

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