7月10日
古文書の勉強を始めたばかりの頃、藩の境界をめぐる訴訟について書かれた文書を読んだことがある。だが、その内容以前に僕が気になったのは、当の文書のどこにも「藩」という文字が出てこないことだった。そこで、たまたま手元にあった高校の日本史の教科書を読んでみると、そこにはこうあった。
「当時は藩という呼称はなく、「国」や「国元」とよんでいた。藩という名称は、中国の封建諸侯が自らの領土を藩屏とよんだのになぞらえて、江戸時代中期ごろから使われたものである。しかし公称されるようになるのは、1869(明治2)年の版籍奉還後、新政府の直轄領となった府・県と区別するために、旧大名領を藩とよんだのが最初である。」(詳解日本史B三省堂1996年版)
なるほど、僕が読んだ文書は貞享五(1688)年のものだから、まだ藩という言葉が使われていなかったのか。しかし、いろいろ調べるうちに、それだけではすまないことがだんだんわかってきた。
まず、教科書には「藩屛」という言葉の意味が書かれていないが、この言葉はもともと垣根や塀のことで、そこから「天子を守護するもの」という意味が生じたものである。また「江戸時代中期ごろから使われた」とあるが、だれによって使われたのかも書いていない。実は最初にこの言葉を盛んに使うようになったのは当時の学者たちだったのである。なかでも、国学者たちは、天下を治める正当な権利を有しているのは「万世一系」の天皇だけであると考えていた。しかるに現実は徳川将軍が世を治めている。それを合理化するために彼らが考えた理屈が、「天皇から政治を委任された将軍家が、皇室を守るために諸侯を各地に配置した。それが『藩』である」というものだったのである。
だから、古文書を読んでいて「藩」という字に出会うのはいわゆる「幕末期」の、それも「倒幕派」側の文書にほぼ限られている。一方で徳川政権側の人間は、藩という言葉を使わない。よく聞く、藩主・藩政・脱藩・藩校・藩札などといった言葉も使われていない。そもそも「藩」という概念が、徳川将軍家側には(そして一般庶民にも)ないのだから、これは当然のことである。
時代劇などを見ていると、当たり前のように、「ご隠居、この峠を越えるといよいよ○○藩ですぜ」などという台詞が出てくることがあるが、実際にはこんなことはあり得なかった。少なくともうっかり八兵衛の時代(十七世紀末と思われる)には、「藩」という言葉などは誰も知らないどころか、存在すらしていなかったのだから。そして、言葉がないということは、その言葉で表される概念も存在しないということ。つまり、誰もが中学高校で習った「幕藩体制」なるものの実在は、実はかなり怪しいということになるのではないだろうか。(この項続く)
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