作られた伝統

歴史、古文書

2月5日

 毎年この季節になると、「恵方巻」の話題をTVのニュースも取り上げ、スーパーには幟が立つ。同じ方向を向いて黙って太巻きにかじりついているというのは、想像するだにマヌケな図だが、本当にそんなことをやっている人がいるのだろうか(個人の感想です)。若い頃には聞いたこともなかった風習だ。関西発のようだし、自分が知らなかっただけかと思って調べてみた。すると、70年代なかばから大阪の海苔問屋の組合が広めたものだという。何のことはない、バレンタインデーのチョコレートより新しい習慣だったのだ。まあ、どんな「伝統」も、それが始まった当時は人びとの眉を顰めさせていたのだろうが…。年末年始には割り込む余地がないので、節分をねらったものだろう。恵方というと陰陽道の感じだが、年神信仰に関連付けて縁起を書いているものもある。茶目っ気で始めたものも、こういうものを持ち出すとにわかに「伝統っぽく」なる。
 最近は神社に行くと、手水の使い方がどうの、どっち側を歩け(または歩くな)だの、二礼二拍手一礼だのと、TVによく出るマナー講師みたいに口やかましい(この手のマナーの中にはマナー講師の職業を維持するためとしか考えられないようなものもある。ひと昔前に流行ってその後インチキと分かった「江戸しぐさ」を連想させるようなのもある)。村落ごとに鎮守があった頃はたぶんそんなにやかましくはなかったはずだ。あったとしてももただのローカルルールだったろう。
 慶応4(1868)年の3月に、新政府が高札場に掲示した告示を読んだことがあるが、恩赦のことなどに並んで、権現や牛頭天王を神として祀ることの禁止が書かれていた。これはつまり、「日本の神々は仏が衆生を救うために化身したもの」という考え方(本地垂迹)の否定である。天皇の祖先とされる神々が仏教の下風に立つことを忌避したのであろう。だが、神道が津々浦々まで広まるには、仏教と習合したことの効果が大きかったはずだ。仏教の教義を取り込み、記紀由来の神に地方神を巻き込んで全国に展開していったのだ。両者はいわば、ウィンウィンの関係だった。
 記紀に由来する神を、唯一無二のものとしてオーソライズしようというもくろみは、敗戦で一頓挫したはずだ。それなのになぜ今頃になって、「神社では二礼二拍手一礼」などとやかましく言われるようになったのか。ちなみにこれが定着したのは、せいぜいここ二、三十年のことと言われている。
 土井隆義(「『宿命』を生きる若者たち」)によれば、2000年代に入った頃から、若者の地縁共同体や血縁共同体への「再埋め込み」が鮮明になるという。そういえば「ジモト愛」などという言葉を聞くようになったのもこの頃からだ。若者たちの生得的な関係へのこだわりは「文化的ナショナリズム」に繋がり、また「再魔術化」によって、むしろ非合理なものに惹かれ、今や年寄りよりも「信心深いのは若者たち」という状況を呈しているという。ここで「再魔術化」というのは、高度成長期の若者が血縁や地縁につながる古くからの価値観を「迷信」として退けた(=脱魔術化した)のに対し、そういうものに抵抗を持たず、逆に惹かれるようになったことを言っているらしい。
 諏訪大社下社春宮の近くにある、「万治の石仏」には多くの参拝客が訪れる。誰が考えたのか参拝方法が事細かに掲示されていて、皆それに従っている。だがこの石仏は、30年ほど前に僕が訪れた時は、散歩の犬たちのマーキングの的になっていた。何しろ全く仏像には見えない。それがTV番組で、「首が伸び縮みする不思議な石仏」として紹介されたのをきっかけに、今や「パワースポット」になったらしい。
 京都下鴨神社の糺(ただす)の森は、僕のお気に入りの場所だった。いつ行っても(他が観光客でごった返しているときでも)閑寂だったからである。ある時、あまりの騒がしさに驚いた。それまでは人影もまばらだったのに、小さな祠の一つ一つにまで参詣の列が出来ているのだ。聞けばここは最強のパワースポットであり、特に縁結びの効果は抜群なのだそうだ(これも誰が考えたのか)。
 最近では御朱印集めブームというのもあって、それも根は同じだろう。そうしたものをありがたがるのは自由だが、批判力もなく、歴史の知識も乏しく、その上「むしろ非合理なものに惹かれる」とあっては、昨日今日できたような「伝統」に手もなく騙されてしまうのではないだろうか。他人事とはいえ、ちょっと心配だ。
 最後に僕が考える、作られた伝統の例を一つ挙げてみる。2019年3月26日、今の上皇が退位を報告するため、橿原市の神武天皇陵に参詣した。このことはTVや新聞でも報道された。これについて宗教的だとか、非科学的だとか、様々な批判もあったが、僕が言いたいのはそこではない。この神武天皇陵は文久三年(1863年)に徳川政権が巨費を投じて作ったものなのだ(それが政権の滅亡を早めたという説もある)。現上皇の前に生前退位した光格天皇の頃には影も形もなかった。したがって、神武天皇陵に退位報告した天皇は現上皇が全くの初めてとなる。つまり、これは伝統でも何でもないのである。

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