愛に就いて

歴史、古文書

4月2日

 「今年の漢字」というのがあって、年末に清水寺で発表される。数年前たまたま発表風景をTVで見ていたのだが、貫主が揮毫した字が達筆すぎるのか、アナウンサーが当惑していたことがあった。ちなみにその年の漢字は「金」。古文書ではよく出てくる書体である。こんな感じ(漢字)。

古文書のくずし字は、知らなければ絶対読めないだろうというものも多い、例えば、

これは「愛」なのだが、まろやかさや優しさのかけらもない。漢字がキャラクターであるという立場から言えば、愛とは猛々しく、恐ろしいものなのだ。
 「恋と愛とは違うものだよ」というのは、最近リバイバルヒットしている、松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」の歌詞(三浦徳子作詞)だが、どう違うのかは教えてくれない。以前、新聞の文化欄に社会学者の肩書の人が、「日本では、愛は昔からあったが、恋は近代以降の概念だ」というような趣旨のことを書いていてびっくりしたことがある。僕の理解と正反対だったからだ。
 漢字には音読みと訓読みがある。「われらが祖先は、たとえば「頭」という漢字を中国人の発音に似せて「ず」と読んでいたのが、或る日突然、「なーんだ。おれたちがみんな首の上にのっけて歩いている、この『かしら』のことじゃないか。それなら『頭』という漢字は『ず』なんて読まずに『かしら』と読もうじゃないか」と、たいへんな発見をしたわけで、七世紀から八世紀にかけてのころには、いささか漢文臭は残っていたけれども、どうやらこうやら日本語を漢字で書きあらわすことができるようになっていた」(井上ひさし『私家版 日本語文法』)というわけで、音読みはその字が日本に入ってきた当時の中国語音、訓読みはその字の意味に相当する和語の読みというわけだ。
 皇室の紋章でもある「菊」だが、「キク」は音読みで、訓はない。「馬」「梅」の場合、一応「うま」「うめ」は訓の扱いだが、本来は音のマが、マ→ンマー→ウマと転訛したもの。「梅」ならメ→ンメー→ウメだ。柳(やなぎ)は字音の「ヤン」から、ヤンの木→ヤナギとなったと言われている。何が言いたいかと言うと、これらはその字が日本にもたらされた段階では日本に存在せず、字と前後して中国から輸入されたものだということだ。
 遠回りしたが、「愛」をアイと読むのは音読みで、「め・でる」「いと・しい」など動詞や形容詞としての訓はあるが、名詞はない。一方「恋」は音読みがレンで、「こい」は訓だ。つまり、「愛」にあたる和語の名詞は存在せず、「こひ(恋)」は当時からあったということ。「乞う」と同源で何かを強く求める意の「恋ふ」の名詞形が「恋(こひ・こい)」で、こちらは由緒正しい和語だ。百人一首でも一番多いのは恋の歌なのである。
 前述の社会学者は、「自由恋愛」という意味合いで「恋」という言葉を使ったのだろうが、「恋」が日本になかったわけではない(おそらく社会学とは定義が違うのだろう)。言語的には「愛」の方が外来の思想なのだ。それも、「物をむさぼり、執着すること」というあまり良くない意味の言葉である。実相寺昭雄の「曼陀羅」の中で、岸田森が「近頃はやたら愛という言葉を使うけど、この愛という言葉は本来甚だ程度の悪い言葉やった(脚本・石堂淑朗)」と言っていたのを思い出した。漢字の猛々しい感じはよくそれを表していると思う。

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