1月23日
(①を是非先にお読みください)
Wikipedia等によれば、「悪魔の手毬唄」は過去に映画2本、テレビドラマ6本になっているようだが、僕は71年のテレビドラマを除いてすべて視聴している。76年のNHKのラジオドラマも毎晩聴いていた。緒形拳の金田一で、かなり原作に忠実だったという記憶がある。61年の映画もBS放送で見たが、Wikiにも書かれている通り、全く原作の姿をとどめていないもので、若い頃の太地喜和子が素晴らしく魅力的だったと知ったのが唯一の収穫だった。
さて、その他の6本の映像作品のうち、最も成功を収めたのは言うまでもなく77年の市川崑監督による映画であろう。以降の映像化作品は大なり小なり皆、この映画の影響を受けていると思われる。僕は封切り時に劇場で、その後もTV等で何度も見た。見るたびによく出来た映画だとは思うが、初めて見たときに感じた強烈な違和感を拭うことはできない(この先ネタバレ)。
原作からの変更点はWiki等に詳しいが、僕が特に問題だと感じるのは次の三点である。
①季節が冬になっていること。
②「火と水と」の章がカットされていること。
③多々羅放庵が悪人になっていること。
①については、流石は名匠市川崑だけに、冬ざれた寒村の風景は非常に美しいし、村井邦彦による哀調を帯びたロシア民謡風の主題曲ともマッチしている。だが、僕にとってこの作品はどうしても夏でなければならないのである。
②の「火と水と」は、こういう話である。磯川警部らは里子の通夜で、捜査方針を山狩りに切り替えること、大空ゆかりの一家が明日帰京することの情報を流す。実はこれは陽動作戦であった。里子が殺されたのは人違いで、あくまでも犯人の狙いはゆかりであると考え、待ち伏せてその現場を押さえようとしたのである。だが、犯人はさらにその裏をかいて「ゆかり御殿(ゆかりが祖父母のために建てた豪邸)」に放火して全焼させ、自らは農薬を飲んだうえで入水自殺を遂げてしまう。この部分が映画では大きく変更されており、リカは千恵(=ゆかり、映画ではこの芸名は使われていない)を呼び出すものの殺そうとはせず、犯行を告白したのち入水するのだ。
③について。放庵はリカに「顔のない死体」のトリックを教唆した。だがそれをネタに恐喝していたという説については、彼をよく知る本多老医師や仁礼嘉平が反対している。原作の放庵は「手毬唄殺人のようなとほうもないこと」ならやりかねないが、「恐喝というような卑劣なこと」はやらない人物なのだ。だが、映画の放庵は単純に卑劣な恐喝者になっている。
②や③のような改変はなぜ行われたのだろうか。原作では「火と水と」の章より前、里子の遺体は衣服を脱がされ、体を覆う赤痣を見せて遺棄されていた。なぜリカは、我が子にそんなむごい仕打ちをしたのだろうか。実は里子は早くから犯人が母であることに気づいていた。彼女は自分が醜い痣を持っているために、母が美しい娘を憎んでいるのだと考え、顔を隠していた頭巾を脱ぎ捨てる。自分は痣を恥じてなどいないという母へのメッセージだった。さらに文子の通夜で、次の標的がゆかりであることを知り、身代わりを務めようと決意する。その際、ゆかりがイヴニング姿だったため、里子はいったん帰宅して喪服から洋装に着替えたのだ。人違いで我が子を手にかけてしまったリカは、里子の意図にも気づいたが、そのままでは自分に疑いがかかると考え、やむなく里子の服を剥いだのである。結局、里子の命を懸けた諫めは母に届かず、むしろゆかりへの殺意の火に油を注ぐ結果になってしまったのだ。
市川崑監督はリカをあくまでも美しい悲劇のヒロインとして描きたかったのだろう。原作通りの結末ではそれは難しい。だから映画のリカは、息子に聞いて初めて自分が我が子を殺したことに気づき、悔いて死ぬのだ。放庵の人物像の変更の理由も同じ。リカが放庵を殺害したのは、放庵の存在が自分の殺人計画の妨げになるからだが、それでは観客の同情は得られない。だから映画では放庵を原作以上に悪者にし、金品ばかりか性的な奉仕まで要求していたことも示唆したのである(大瀧秀治のセリフ「色と欲じゃな」)。
前年の「犬神家」で、高峰三枝子演ずる松子は、冷酷な殺人者だが罪を逃れようとはせず、剛毅で誇り高いイメージがあった。それに比してリカにはどうにも陰湿な印象が拭えないのだ。息子の歌名雄と実は異母妹である康子、文子との結婚は阻止しなければならないが、その理由を息子に説明できないという窮地。その点は確かに同情できる。だが、おあつらえ向きの手毬唄があったからといって、見立て殺人を企てた時点で、彼女は「悪魔」になってしまっている。老婆に扮した姿をあえて一番に金田一に見せているが、これは彼の探偵としての名声を知って「挑戦」しているのである。捜査の攪乱を狙って、老婆の影絵を土蔵に映すなど、あきらかに犯罪を「楽しんで」もいる。リカはあくまで横溝正史的世界の住人なのであり、決して悲劇のヒロインではない。
ではこの映画は失敗作かというとそんなことはない。これはあくまで横溝の原作にインスパイアされた、市川崑の世界なのである。後続の映像作品が、この映画の枠から出られていないことが問題なのだ。(この項さらに続く)
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