「マカロニほうれん荘」のこと

音楽、絵画、ドラマ

5月19日

 僕が高校の頃最も「ハマって」いた漫画は「マカロニほうれん荘」である。当時、少年チャンピオンで連載していたのだが、僕は漫画週刊誌を買うことはなかったので、おそらく最初は誰かに借りて読んだのだろう。あまりに面白かったので、第一巻から単行本を買ったのだが、絵があまりにも違っているので驚いた。連載の途中でキャラクターの顔が変わってゆくというのはよくあることだが、この作品の場合、回を追うにつれてどんどん絵が巧くなってゆく。傑作の誉れ高い「第1次“暁”戦争‼」など、現実(漫画の中の)と妄想(?)が二重写しのように展開してゆくさまを表現するには、圧倒的な画力が必要とされる。この作者の鴨川つばめとはどんな人なのか、当時は全く情報がなかった。年齢は勿論、男か女かさえ分からなかったのだ。かなり後になって、僕よりわずか四歳しか年長でないことを知って驚いた、つまり連載当時は、まだ二十歳そこそこだったわけだ。そしてこの作品が連載されていた三年間は、そのまま僕の高校時代にあたっている。途中、「作者体調不良による」休載があり、再開後は「大失速」とも呼ばれる、質的な変化もあった。
 この「マカロニほうれん荘」とはどんな漫画なのだろう。文庫版の解説に鴻上尚史が、「赤塚不二夫は既成の権威をずらし、(「がきデカ」の)山上たつひこは権威を破壊した。そして鴨川つばめは権威を『遊んだ』」という趣旨のことを書いている。
 僕は昔友人と、「がきデカ」と「マカロニほうれん荘」のどちらが優れた漫画かで論争したことがあった。その友人は、「がきデカ」は漫画史に残る傑作だという。そんなことは知らないが、「マカロニ…」の方が圧倒的に面白かった、というのが僕の立場だった。鴻上尚史の言うことはその通りなのだろう。だが、僕がこの漫画に魅せられたのは、ただ「遊んでいるから」ではない。その「遊び」のセンスが圧倒的に素晴らしかったからなのだ。
 一つだけ例を上げよう。「巨大なる戦場‼」の回。きんどーさんがドラム缶風呂に入りながら「ラバウル小唄」を歌っている。なぜか「さらばラバウルよ~」というところばかり繰り返し歌っているので、通りかかったトシが「ドン」とうさぎ跳びをする。次のコマでレコードプレーヤーのピックアップが「ぴょん」と跳ね、きんどーさんが「またくるまでは~」と続きを歌う。トシが「世話のやける人だ」という。——若い人には何のことやらわからないだろうが、僕らの世代ならニヤリとするところだ。
 ストーリーと呼べるほどのものはなく、高校一年の主人公そうじが、同じ下宿に住む、落第生で40才のきんどーさんと、同じく25才のトシちゃんが巻き起こす不条理な騒動に巻き込まれるというのが毎回のパターンだ。そうじの印象が薄いという意見もあるがそうではない。異常な二人に対する、マトモなそうじの突っ込みこそが一番の笑いどころなのだ。「大失速」後は、そうじの出番が目に見えて減り、もう一人の変人馬之助が主役級に昇格する。そうなるともうただの内輪話になってしまってまるで笑えないのだ。その他の変化として、絵が雑、一つのギャグをやたらに長く引っ張る、下ネタが多い、等々。
 「失速」の原因として、作者と編集部の対立、特に当時の漫画誌の才能使い捨て体質などがあげられることがある。だがそれだけではない気もする。確かに、優秀な編集者がサポートし、アシスタントも付けて作画を分業にするなどすればもう少し「延命」できたかもしれない。それでも、最盛時の輝きを取り戻せたかどうか…。これはまさに奇跡のような漫画なのだ。
 「マカロニほうれん荘」の単行本全9巻は、今も版を重ねている。今の若い人たちが読んでも充分に面白いだろう。だが、70年代に僕が感じた輝きを感じ取ることは無理だと思う。これは僕らの世代の漫画なのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました