76年の「犬神家」

音楽、絵画、ドラマ

11月16日

 13日の朝日新聞BEに、金田一シリーズの人気ランキングが出ていて、一位は「犬神家の一族」であった。個人的にはそこまでの傑作とは思わないのだが、やはり1976年に大ヒットした映画の影響が大きいのだろう。「獄門島」や「八つ墓村」それに、僕が偏愛する「悪魔の手毬唄」などを映像化したもの(これらについてはいずれ稿を改める)に比べ、確かにこの映画の完成度は高い。実際のところ、横溝の長編の魅力を余すところなく表現するには、二時間程度という尺では足りないのである。皮肉な言い方をすれば、「犬神家」は、映画にするにはちょうど頃合いの作品だったということかもしれない。ただし、映像化作品には必ずと言っていいほど改変した部分がある。映画を見ただけで、作品を知った気になるのは危険である。
 (ここからネタバレ)「犬神家」と言えばなんといっても有名なのは、波立つ湖面からV字型に突き出した佐清(スケキヨ)の足であるが、そもそもあんな風に死体を固定することは可能なのであろうか。佐武の首を切り落として菊人形にすげかえたのは佐清と青沼静馬であるが、ここではその佐清が(実は静馬だが)殺されているのだから、この困難な作業を残る一人でやったことになる。原作では那須瑚(諏訪湖がモデル)はこの時氷結しており、松子が一人で死体を遺棄したことになっている。実は、原作では最初の若林殺害から最後の静馬殺害までの間に約二か月もの時間が経過しているのだが、映画ではそれを数日間に圧縮しているのだ。結果、菊人形を使った見立ては前半のハイライトなので変えられない以上、静馬殺しの際に湖が凍結している設定は無理になってしまったのだ(実際にはたとえ湖面が凍っていても、あんなふうに逆立ちさせるのは困難だとも思うが)。大きな変更は他にもあって、佐智の死体の発見場所が、湖の対岸にある廃屋から犬神邸の屋根の上に変わっている。これはおそらく映像的にインパクトを持たせるためであろう。だがこの結果、アリバイ工作の意味をなさなくなってしまっているのだ。
 原作では、静馬は佐清として珠世と結婚し、犬神家を乗っ取ろうと企てていた。だが、珠世が佐兵衛翁の実の孫であることが判明し、佐兵衛の子である静馬とは叔父と姪の関係になってしまうため、計画をあきらめる。横溝作品には近親相姦をモチーフとしたものが多いのだが、この「静馬のジレンマ」にはどうも首をかしげざるを得ない。静馬の母と珠世の祖母は別人だから、三親等とはいっても血のつながりは半分だし、そもそもそこまで気にかける必要があろうか。佐兵衛の遺言は珠世との婚姻が条件だが、子を成すことまでは求めていない。首尾よく財産を相続した段階で珠世を始末してしまえばよい。つまり結局静馬は、それほどの悪人ではなかったということになる。あるいは彼もまた珠世を恋してしまったのかもしれない。だが、佐清になりすましたままの珠世との結婚生活を夢見ていたのならば、おめでたいとしか言いようがなかろう。
 松子は我が子可愛さでライバルたちを身勝手に殺しただけだが、市川崑監督は、それを愛の物語に昇華させた(余談だが、大野雄二による印象的な主題曲の題は「愛のテーマ」である)。ただしそれはあながち勝手な改変とまでは言えず、原作もそう読めるように書かれている。佐武・佐智の俗悪さに対し佐清は清廉(で何より美男)だし、珠世も佐清に思いを寄せていたのだから。そして映画では前述の「静馬のジレンマ」の部分は省略され、静馬は自分と珠世の血が繋がっていることは知らないまま死ぬ。松子の息子への愛の物語として終えるためには、静馬はあくまで悪人として、松子を追い詰める脅迫者として描かれなければならなかったからだ。
 この映画は社会現象となるほどのヒットを記録した。回想場面を含む長い解決編など、その後のミステリードラマの定型を作ったともいえる作品であったと思う。が、これ以降の横溝作品の映像化は市川崑作品も含めて、必ずしも成功を収めてはいないように僕には思えるのである。そのあたりもまたいずれ語ろう。

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