信長や秀吉はなぜ幕府を開かなかったのか①

7月25日

 きっかけはあるTV番組だった。歴史教科書の内容が昔と変わっているという話の中で、「イイクニ」が、今では「イイハコ」となって、鎌倉幕府成立が1185年に変わっていると紹介されていた。その後、軽い付け足しのように、「そもそも幕府と言うのは江戸時代になってから作られた言葉で、歴史家がそれを鎌倉や室町にも当てはめた」のだという。そこが気になった。確か、「幕府」とは源頼朝の故事からくる言葉だと何かで読んだ記憶があったからだ。早速調べてみると、小学館国語大辞典に次の記述を見つけた。

幕府 2⃣ 近衛府の唐名。転じて近衛大将の居館。または近衛大将をさす。(用例略)
3⃣ (右近衛大将であった源頼朝が建久三年(一一九二)征夷大将軍となったあとも引き続いてその居館を呼称したことから)武家政権の首長及びその居館の呼称。また、鎌倉・室町・江戸時代の武家政権そのものもさして用いる。柳営。(用例略)

 どういうことか。「幕府」という呼称は源頼朝に由来するが、その言葉を武家政権そのものに用いるのは江戸時代になってからということなのか。さらに調べるうち、そこには「藩」と同じ構図があることに気づいたのである。「藩」が、皇室の藩屏(垣根や塀、転じて守るもの)を意味し、国学者らによって江戸中期から使われるようになった言葉であると前に述べた。「万世一系」の天皇が天下を治める正当性を有しているという国学の立場から、徳川将軍が君臨している現状を説明するために、将軍はあくまでも天皇に委任されて統治行為を行い、皇室の守りとして諸侯を配置したのであり、それが「藩」なのだという考え方である。それならば徳川将軍家についても、ふさわしい呼称が必要だ。そう考えていたある学者が、ある時「吾妻鏡」を読んでいて、次の記述を発見したのではないだろうか。
「文応元年(一二六〇)四月二十六日「将軍家住居者称幕府(将軍家住居は幕府と称す)」
 幕府とは本来は近衛大将のこと、宮廷において天皇の最もそば近くを警護する「近衛府」の長官である。その近衛大将の居宅を意味する言葉を、将軍になったあとも使い続けているのは、天皇をお守りするという職責を自覚していたからに違いない。そう考えれば、武家政権を表す言葉としてこれほどふさわしい言葉があるだろうか。そしてその時、源頼朝から、室町将軍を経て、徳川家までが彼の頭の中で一本の糸でつながったのだ。そのつなぐ糸とは他ならぬ「源氏姓」である。
 そう、徳川氏の本姓は「源」なのである。家康は公式に自署する際は「源家康」を用いている。そして足利氏も、傍流とはいえ源氏の流れを汲んでいる。そこで、「源頼朝以来、武家の棟梁である源氏の長者が、征夷大将軍となって「幕府」を開き、天皇に代わって統治行為を行い、それが今に続いている」という見事な図式が出来上がったというわけだ。
この「彼」が誰かはわからない。是非専門の学者に明らかにしてほしいものだが、おそらく歴史学者にとってはそれほど魅力あるテーマではないのだろう。(この項続く)

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