「士農工商」は、制度ではなくイデオロギー

歴史、古文書

12月28日

 「士農工商」という言葉を、広辞苑(第六版)で引くとこうある。「江戸時代の封建社会の身分観念に従って、上位から順に並べたもの。なおこの下に、えた・非人があった。四民。」学校時代の歴史の授業でも、「食糧、特に国の基幹にかかわるコメを生産する農民は尊く、何も生み出さない商人は卑しいとされた」と習った記憶がある。だが、今この言葉は小学校、中学校の教科書からはほぼ姿を消している。高校日本史の教科書にも、「士農工商とよぶこともある」と書かれている程度だ。ネット上では「士農工商というウソ」という説に対し、「士農工商は現実にあった、それをなかったことにしようとしている」という反論もあり、時に激しい言葉が交わされたりもしている。実際のところはどうだったのであろう。
 僕も昔は学校で習うままに、身分制度としての「士農工商」を信じていた。だが、広辞苑が言うようにこれが江戸期に特有のものとするなら、それを「制度として」全国に徹底するためには、何らかの政令が必要なはずだが、そういうものが出された形跡はない。五人組帳などにも触れられてはいない。古文書で農・工などという言葉を見ることはめったになく、町方、在方という区別が多い。これも古文書を学ぶようになって知ったことだが、当時百姓の娘が武家に嫁することはそれほど珍しくはなく、町人が武家の養子になることもあった。農家の子弟が商家に奉公するのはごく普通だった。少なくともカーストとしての「士農工商」は存在していなかったようだ。
 武士の優越を表すものとして、「切り捨て御免」などということも昔習ったが、「無礼討ち(切り捨て御免という言葉は江戸期には使われていない)」が認められるには厳しい条件があった。武士といえども、私怨で町人を殺傷したりすれば、厳しく吟味され、断罪された記録がたくさん残っている。
 では、「士農工商」という身分概念が全くの虚構かというとそうとも言い切れない。江戸時代の儒学者、特に朱子学者によって武士の優越を根拠づける考え方として提唱されていたのは事実であろう。つまり、「士農工商」とは制度ではなく、イデオロギーだったのである。
 近世に身分差別がなかったなどと言うつもりはない。百姓・職人・家持町人はそれぞれ横並びでも、例えば百姓でも村役人クラスと水呑では雲泥の差があり、職人でも細分化された身分があった。商家もまた同様である。そしてその下にはかわた(えた)・非人と呼ばれる人々もいたのである。
 「士農工商」が身分の序列であるという考え方が定着したのは、戦前の教育が明治維新を称揚・美化する過程で、明治新政府の「四民平等」に対立する古い身分概念として強調したからと思われる。戦後も長くそれが残ったのは、これはあくまで僕の考えだが、前近代の身分差別を端的に表す言葉として、いわゆる進歩史観とも相性が良かったからではないだろうか。
 「四民平等」の方は、いまだに歴史の教科書に太字で書かれている。だがこれとても、三民はもともと平等であったと考えれば、単に士族の特典を奪ったに過ぎない。この言葉は、多くの教科書ですぐ近くに書かれているもう一つの四字熟語と表裏一体をなす言葉だと僕は思っている。その言葉とは何か…。答えは「国民皆兵」である。つまり明治新政府は職能集団としての武士階級を解体することで、軍事立国を図ったのだ。そしてそれは1945年8月15日まで続くことになる。

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