「藩」なんて知らないよ②

7月14日 (藩の話 つづき)

「幕末」期の文書に見える「藩」

 江戸時代を通じて、「藩」という言葉はほとんど知られていないし、使われていないというのが前回の主旨。だが、いわゆる「幕末好き」の人なら、長州藩や薩摩藩などの雄藩連合はなかったと言うのかとか、坂本龍馬は脱藩したではないかなどと異議を唱えたくなるだろう。「藩」という言葉は、もともと「皇室の藩屏」に由来するので、特にこの時期、勤皇派の人々には好んで使われた言葉だったのだろうと僕は思っている。
「廃藩置県」という言葉のインパクトが強いせいで、僕たちは今の都道府県にあたるものが、江戸時代には「藩」だったと考えがちだ。しかし、ごく一部の国持大名(薩長土肥などはこれにあたる)を除くほとんどの大名の領地は、一か所にまとまっておらず、諸国に分散しているのである。「小田原藩」を例にとると、廃藩置県前の段階で小田原城下(相模国=神奈川県)の他に、駿河国の駿東地区、伊豆国の一部(ともに静岡県)、さらに摂津国や河内国(ともに大阪府)にも領地を持っていた。こんなにバラバラでは統治する上で不便極まりないと思うが、このような「藩」の方がむしろ多数派だったのである。遠隔地の自領と近くの他領を交換してくれるように願い出たりした例もあるようだが、顧慮されていない。徳川政権側としては諸侯にまとまった領地を持たせたくなかったということかもしれない。
 もちろん領民の側にも、「自分は〇〇藩の住民だ」などという意識はない。住所を表すには律令制以来の国と郡で、例えば「武蔵国(または武州)荏原郡中目黒村」などと記す。領有関係を明らかにしたい場合には、領主が大名なら「〇〇様御領分」、旗本なら「〇〇様御知行所」などと書く。
 一つの村に複数の領主がいることも特に珍しくなく、領主が三人なら三給、四人なら四給などといった。村長にあたる名主(西国では庄屋・東北では肝煎ともいう)も領主ごとにいる。四給なら名主が四人いるわけだ。警察権は領主が持ち、村役人が代行するが、同じ村であっても他領には及ばない。隣人同士でも領主が違うことがあるわけで、もめごとの解決も複雑になってしまう。江戸に近く、大きな大名が置かれていない関東地方には、特にこういう村が多かった。そこで治安維持のために関東取締出役(いわゆる八州回り)というものが必要になったのである。
 こういったことを、僕は古文書を学ぶなかで知った。中学や高校の歴史の授業では一度も聞いたことはなかった。「藩」という言葉を歴史上初めて公式に使ったのは明治政府であるが、近代の歴史家たちが江戸時代の政治体制を「幕藩体制」と名付けた。それはいいだろう。江戸時代を説明するためには便利な言葉だし、歴史とは後世から過去を振り返るものだから。だが、当時の人々はそんな言葉は使っていなかった。それは「幕府」も同じで、徳川政権側が自分たちのことを幕府と名乗ったことはない。だから、暴れん坊将軍が、悪者の家臣に向かって「その方、幕閣の要職にありながら…」なんて言うことはあり得ないのである。(この「幕府」についてはまた別の機会に語ろう)。

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