目からウロコ「倭」と「日本」は別の国だった①

歴史、古文書

8月10日

 「倭」と書いて「やまと」と読む。例えばヤマトタケルノミコトを、日本書紀では「日本武尊」と表記するが、古事記では「倭建命」と書いている。ただしこの「やまと」という訓は、日本の側で勝手にそう読んでいるだけだ。歴代中華王朝の側から見れば、東方から朝貢してくるある異民族のことを「倭人」、「倭奴」、「倭国」などと呼んだに過ぎない。当初の字音は「ヰ」だったようだ。「倭」という字には「恭順」などの意味があるらしく、「匈奴(匈には騒ぐ、悪いなどの意味がある)」と対をなしているという見方もある。歴代の中国の歴史書でも一貫して倭、倭国と呼んでいる。
「魏志倭人伝」を知らない人はいないだろうが、実はそんな名前の本は存在しない。漫画やゲーム、映画などで人気の三国志、それは明代に書かれた小説「三国志演義」が原作だが、そのネタ元が正史たる「三国志」である。その正史の三国志のうちの「魏志」の「東夷伝」、さらにその中の倭人について書かれたくだりを、日本側が勝手に「魏志倭人伝」と呼んでいるだけなのだ。
 ところで、「旧唐書」(唐代について書かれた正史、「旧唐書」と「新唐書」がある)では、なんと当時の日本についての記事が、「倭国伝」と「日本伝」に分かれている。こんな大事なことを、僕は古田武彦(1926~2015)の著書を読むまで知らなかった。確かにこんなマニアックな知識を、中学や高校の歴史で教えるはずもないのだが、さりとて大学で歴史学を専攻している学生の間で、これが常識だとも思えない。古田も批判しているが、国学から始まるこの国の歴史研究は、自説に都合のいい史料のみを引用し、都合の悪いものは無視するか、勝手に改定してきたからである。
 何がそんなに大事なのか。これまでの歴史では持統天皇の時代に倭から日本に国号を変更したことになっている。また、少なくとも702年の遣唐使が、唐に日本という国号を承認させたことがわかっている。だが、この旧唐書に寄れば、七世紀には、日本列島に「倭国」と「日本」という二つの国が同時に存在したことになるのである。旧唐書「倭国伝」の内容は、それまでの歴代の正史に書かれた倭国像と基本的には変わらない。倭王の姓が「阿毎(あめ)」であると書かれており、これは隋書の記述で、煬帝に国書をもたらした倭王の姓と同じである。一方で、「日本伝」では、「日本は倭国の別種なり」「日本はもと小国、倭国の地を併せたり」とも書いている。この日本国が、いわゆる大和王権=近畿天皇家を指していることは明白なのだから、それまで歴代中華王朝によって「倭国」と呼ばれていた国は、大和王権とは別の王権(九州にあったと考えられる)だったということになるのである。
 この古田の説は、中央の学会からは無視を決め込まれている。彼の代表作「邪馬台国はなかった」は、そのセンセーショナルな題(編集者が付けたようだが)のせいでキワモノ視されがちだし、古田自身、後には偽書とされる「東日流外三郡誌」に傾倒するなどしたが、この「九州王朝説」は今なお色褪せてはいないはずだ。何より、この視点を持ち込むことで、多くの「古代史の謎」が雲散霧消するのであるから。(この項続く)

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