2月10日
句読点(くとうてん)とは日本語の「テンマル」のことだが、凹凸(おうとつ)とデコボコ同様に対応がねじれているためか、勘違いして覚えている人が結構いるようだ。勿論句点がマル、読点がテンが正しい。
「音訳」をしている立場からすると、句読点はとても重要だ。特に読点のない文章は読みづらい。だが、最近の若い人たちは、SNSのメッセージなどでこの句読点を使わないという。「Z世代」に至っては、文末に句点「。」がある文を見ると圧迫感を感じることから、「マルハラ(マル・ハラスメント)」という言葉さえできたという。
本当にそんな言葉がよく使われているかは別として、普段句読点を使わない若者が句点に圧迫感を感じるというのはわかる気がする。英語圏の人が、愛称でなく本名で呼ばれると緊張するというのに少し似ているかもしれない。普段はビルなのにウィリアムと呼ばれると、子供のころ親に叱責されたのを思い出すという(叱る際には本名をフルネームでよぶことがよくあるらしい)のだ。
若い人たちは普段、句読点が必要なほど長い文章を打たない。ほんの一、二行を会話のようにやり取りしているのだ。「常時接続」のなせる業である。彼らが電車のなかでもずっとスマホを睨んでいるのは、動画やゲームを楽しんでいるというのもあるが、何よりいつでも連絡に応答するためだ。彼らが伝えあっているのは、用件よりも「気分」なのだろう。そんな彼らにしてみれば、堅苦しい文が気分を類推できない「。」で終わっているのを見て、恐怖するのは当然かもしれない。勿論、常につながっていないと安心できないという「常時接続」には問題があると思うが、今回のテーマはそこではない。彼らが長い改まった文章を書く時には、適切に句読点を使えることを願うばかりだ。
と偉そうに書いたものの、僕もどこに読点を打つべきか、いつも悩みながら文章を書いている。読点の打ち方には明文化された規則があるわけではないのだが、どこで区切れば読み手に伝わりやすいか考えることは、思考訓練にもなるのだ。チャットのような短い文のやり取りだけでは思考力が育たないとも思う。
もっとも、日本語の句読点は伝統でも何でもなく、「言文一致運動」によってもたらされた、ごくごく歴史の浅いものだ。僕は趣味で古文書解読を学んでいるが、主に読んでいる江戸期の文書には当然句読点などない。いわゆる候文(そうろうぶん)では、「候」「御座候(ござそうろう)」とくればそこが文末、「候而(そうろうて)」「候間(そうろうあいだ)」「候得者(そうらえば)」「候得共(そうらえども)」などであれば文はまだ続くと判断する。
句読点は大切だし、有難いものだと思うが、今でも例えば年賀状には句読点を使わない。改まった書状や、毛筆書きの場合は句読点を使わないのだから、若者がメール等に句読点を使わないことに目くじらを立てる必要もないと思う。
コメント