「象徴」とは何か

歴史、古文書

3月24日

 少し前の話だが、3月13日の朝日新聞のオピニオン欄に、「象徴天皇制を問い直す」と題する意見記事が載った。政治学者の原武史に記者がインタビューしてまとめたものである。メディアでの発言が「おおかた無難に編集されてしまう」という原が「自粛も禁忌(タブー)もなし」に論じたという内容である。原は1962年生まれなので、僕と同世代である。述べていることも共感できた。一方で、これだけの発言をするためにはかなりの覚悟が必要なのが、昨今の空気感なのだろうと改めて思った。
 僕は現上皇が、生前退位を希望した時、いわゆるリベラルと言われる人たちに賛成が多く、むしろ保守派に反対が多かったことが不思議でならなかった。退位の理由は一言で言えば、「象徴の務めが果たせなくなった」という事だった。という事は、象徴の務めが果たせなければ、天皇たりえないと言っていることになる。だが、皇室典範は皇位継承順序を定めているだけだ。「象徴の務め」を果たせるかどうかは天皇となる要件ではないのである。
 一方で世界の歴史を見れば、暗愚だったり無能だったりする皇帝など掃いて捨てるほどいる。
 現憲法制定時、天皇を「象徴」とすることに落ち着くまでには、いろいろな経緯があったようだが、今それは置く。「象徴」という言葉は言うまでもなく「symbol(e)」の訳語であり、本来は具体的なものと抽象的なものを類似性に注目して関連付けることを意味する。日本国という抽象的概念を、天皇に託して表現するという場合、それは天皇の「存在」によるのであって、何をするか(またはしたか)という「務め」によってではない筈なのだ。

 原は、「憲法は『象徴』の定義について触れてい」ないが、現上皇は「『国民の安寧と幸せを祈ること』と『人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと』を象徴の務めの2本柱と位置づけ」、具体的には、「昭和天皇がほぼ手を付けなかった被災地訪問と、先の大戦にまつわる『慰霊の旅』を重視」したことで、「象徴天皇制のハードルを上げてしまった」という。また、現上皇の天皇時代の活動について、保守派から「何もひざまずく必要はない」という批判もあったのに対し、左派は「上皇を戦後民主主義の擁護者かのように仰いで」、「改憲派に対する防波堤的機能を期待する声」すらあるとする。そしてそれは「筋違いも甚だしい」と喝破するのだ。
 皇位継承問題について、保守派は男系維持に固執している。例えば、自民党憲法改正実現本部長の古屋圭司衆院議員はかつて、「天皇制度は如何に男系男子による継承維持が歴史的に重要か、神武天皇と今上天皇は全く同じY染色体であることが、『ニュートン誌』染色体科学の点でも立証されている。近代の男女同権という価値観とは次元が異なる」とツイートしたことがある。非科学的も甚だしいが、こんなニセ情報を流してまで男系を守りたいのだろう。
 原は、「側室制度がなくなった現在、男系で皇位をつなぐことは極めて困難」だし、女系を容認したところで、「血統による世襲である以上、女性天皇や女性皇族は必ず誰かと結婚し子を産むことを求められる。つまり、未婚を貫くことも、もっと言えばLGBTQであることも否定される。多様性を肯定する世界の流れに明らかに反して」いると言う。「どう存続させるか、ではなく、そこまでして象徴天皇制を維持する必要性があるのか、議論すべき段階」であり、「血の純粋性をよりどころにした制度は、多様化する社会の統合や包摂を担うメカニズムにはなり得ず、逆に排除の論理になりかね」ないとまで言う。
 「新聞もテレビも、皇位継承や政教分離の問題を扱うことはあっても、根源的な問題には踏み込まない。これでは、天皇のあり方を決めるべき国民の中に冷静な議論は育たず、タブーはいつまでも残ったままです。ジャーナリズムは本来の責任を果たすべきです」という原の論には聞くべきものがあると思う。実は新聞に載ったのは全部ではなく、「朝日新聞デジタル」ではさらに詳しい論考が読める。
 この「直球」の意見に対して、どういう反応があるかと思っていたのだが、僕が見ている限りではほとんど何もないのである。「保守派」を自任する人は是非議論に参加してほしい。原も「天皇についてどれだけ忌憚のない率直な言論が保障されているか。それは今も、社会の自由度と健全性を測る指標です」と言っている。

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